2012.04.27

音楽を聴くということ

私が本格的にクラシック音楽を聴くようになったのは、牧師となって八王子に住むようになってからだ。そのころPBAという福音放送局が中心になって、そのころはまだ新しかったラジカセを持って、羽鳥明先生の3分メッセージのカセットテープをセットして、それをもって訪問伝道に訪れ、訪問したお宅の玄関先でそのメッセージを聴いてもらうという、そういう伝道方法が試みられていた。そのためにラジカセを買った。このラジカセはFM放送を受信できた。
そのころNHK-FMでは、土曜日の午後にクラシック音楽の長時間番組が持たれていた。普通は番組は長くても30分というものだった。この枠の中ではクラシック音楽の交響曲などを一曲全部を放送することができない。そこでNHKは聴取者の要望を入れて、土曜日の午後に3時間番組を編成した。結果は交響曲も一曲丸ごと放送することができるようになった。
土曜日の午後と...いうのは、牧師にとってはとても緊張する時間帯だ。そこで私はラジカセを使ってFM放送を受信し、それをカセットテープに録音することを始めた。結局私のラジカセは伝道用にはほとんど使われず、私の音楽趣味を満足させるために使われることになった。
ある夜、寝床を整えながら昼間に録音しておいたカセットテープを再生していた。それはマーラー作曲の「大地の歌」の最後のところ。アルトの歌手が「とこしえに、とこしえに」と繰り返して、だんだんと音楽が消えていくように終わる。470小節以下くらいのところ、コーダの少し前のあたりだったと思うが、それを聴きながら「なんと美しい音楽だろう」と思った。
それまではモダンジャズや、アメリカのミュージカルの音楽などを中心に熱心に聞いてきた。しかしその時以来、クラシック音楽も聴くようになった。それはFM放送を聴くようになってからだ。それは1970年代の後半くらいになってからだった。
ずいぶん後になってから気がつくのだが、優れたクラシック音楽というものは、作られた音楽そのものが素晴らしいのであって、聞こえてくる音の量とは必ずしも比例しないということ。もちろん生演奏にこしたことはないが、モノラルの音であっても、音楽の再生装置がどうのこうのというやかましい議論があるが、音楽そのものが美しいのだということ。貧弱な受信装置で、今のように高性能のカセットテープでない時代に、ラジカセで聴いた音楽の素晴らしさに感動したということは、音楽そのものの美しさなのである。この「大地の歌」は実にすばらしい音楽だ。

2012.04.10

『サラマンダーは炎のなかに』

『サラマンダーは炎のなかに』上下を読了した。ジョン・ル・カレ作、加賀山卓郎訳、光文社文庫、上下巻で732ページもある。スパイ小説という分野に属するものなのだろう。9.11のテロ事件とそれに続くイラク戦争という歴史を背景として物語が描かれていく。「サラマンダー」というのは「火の精」という意味らしい。この本の題は「火の精」は「炎のなかに」あるという意味なのだろう。原タイトルは"Absolute Friends"というのだから、「特別な友人」というような意味なのだろう。二人の国際的なスパイの活躍が語られていく。途中で何か齟齬があったのだろう、突然に国際的なテロの爆裂に巻き込まれてしまうという話。二人のスパイの友人が、国際的な事件・歴史的な出来事の「炎」の中で暗躍するという話なので、日本語タイトルはこうなったのだろう。なかなかしゃれたタイトルづけだと思う。著者は9.11からイラク戦争という歴史の展開の中で形成される米英帝国主義の動きにはかなり批判的らしい。

こういうジャンルの小説は初めて読むので、はじめは物語のどこに焦点を合わせて読んでいけばいいのかがよくわからなかった。よく理解できないままに強引に読み進めて、読了してみると「いい話だったなぁという印象」。お勧めの本だ。

2012.04.05

『マタイ受難曲』を聴く

今週はイエスキリストの受難週なので、今日はバッハの『マタイ受難曲』を聴いた。この三時間もかかる大曲を一気に聴いた。カール・リヒター指揮、ミュンヘン・バッハ合唱団・管弦楽団演奏。私はバッハを聴くようになってしばらくしてから、このような大曲があるということを知って、このリヒターのCDを買って聴き始めた。その当時こんな大曲を聴くのは初めてだった。バッハの曲でもこんなにたくさんの「レチタティーヴォ」が含まれているのも初めてだった。

ミニチュア・スコアと呼ばれる楽譜も買って、それを見ながら聴く。そしてCDに付属している説明の小冊子を同時に見ながら(私は歌詞のドイツ語が読めないので)、さらにその小冊子は文語訳なので、新改訳聖書も脇に置いて、頭をフル回転させながらの、至福の三時間を過ごす。イエスキリストの受難週と呼ばれるマタイの福音書の26-27章には、こんなにすごいドラマが書かれているのだということは、この曲を熱心に聴くようになって初め知った。

すばらしい序曲に続いて、いよいよ聖書が読まれていく。そして過ぎ越しの食事からイスカリオテ・ユダの裏切り、ゲツセマネの園での弟子たちの居眠りと、非常に緊迫したドラマが展開されていく、同時に音楽もレチタティーヴォが続き、そこにコラール、ここ15-16曲で歌われるコラールは讃美歌集136番「血潮したたる……」だか、このコラールが26章33-35節のみことばをはさんで二度繰り返される。そしてそれに続いて合唱を伴ったテノールのレチタティーヴォが続くが、ここではテノールが、ゲツセマネの園でのイエスの不安とおののきを歌っていく。ここでの通奏低音は16分音符を連続して刻んでいく。そして合唱が「イエスさまの不安とおののきは私たちの罪のためです」と応答していく。

この逮捕を目前にした緊張した雰囲気に続いて、オーボエソロと合唱を伴ったテノールのアリアが続く。このアリアは「イエスのもとで目覚めていよう」と歌うが、そこまでの緊張感から見事に解放してくれるような名曲である。こんなに美しいオーボエのソロが、今でも世界中に数限りなく存在する楽曲の中にほかにはあり得ないと言えるほどの名曲だと言ってもいい。N響の主席オーボエ奏者の茂木大輔さんが、ドイツに留学中にこの曲に出会った感動をあるところに書いているが、彼のこの曲との出会いの感動が見事に伝わってくる文章だった。

曲中にはオーボエのソロにテノールのアリアがかぶってくるところが何回か出てくる。その両者の絶妙なかけ合いというか、音の合わせ方というか、それは演奏する人たちにとっては非常に難しいところなのだろうが、聴く者にとっては、音楽の素晴らしさを堪能させてくれるところである。そして最後にオーボエのソロがこの曲の主題を11小節演奏して締めくくられる。この演奏を聴くと私は感動してしまって、「もうここまででいいや!」と言って聴き終えることがしばしばであった。

2012.03.29

Twitterとの連携

昨日、このブログを新しくした。ほかに引っ越ししようかとも思ったが、デザインの変更で気分を一新しようと思った。同時に、Twitterにも関連投稿ができるように設定て見た。どんな感じになるのか。

2012.03.28

春がやってくるか

この冬はとても寒い日が続いた。春めいてきたかと思うと再び寒くなり雪が降るという繰り返しだった。でも昨日からようやく春のきざしのなってきた。

ブログのデザインを変えてみた。提供されているデザインではなかなか気に行ったものがないけど、まあこれでいいか。

2012.02.27

小岸昭著『マラーノの系譜』

この本を読んだ。みすず書房、四六版、110ページ。

「マラーノ」というのは、14-15世紀くらいにスペインやポルトガルといった地域で、強制的にキリスト教に改宗させられたユダヤ人のことを意味する。「マラーノ」というのはスペイン語で「豚」の意味だそうだ。彼らはキリスト教に改宗させられても、伝統的なユダヤ教の掟を守り続けた。そのために彼らはさらなる弾圧を恐れて、彼らだけの街を作って住んだ。弾圧する側は改宗させてしまえばめでたしめでたしとなるのかと思いきや、「豚」といって徹底して軽蔑し差別していた。

この時代には、狂信的になって国家権力をもほしいままにしたキリスト教会によって、ユダヤ教信徒は激しく弾圧された。この本はその歴史を語っている。改宗ユダヤ教徒の子孫であるスピノーザ、ハイネ、カフカそのほかの著作を分析しながら、この特殊な歴史が語られていく。非常に興味ある内容だった。このような弾圧を受けたユダヤ人たちの歴史があることは、私も知ってはいた。ユダヤ人は第一世紀の後半になって国を失って、ヨーロッパの各地に散らされていった。その一部はスペインにまで至り、さらには南北アメリカ大陸にまで及んだ。このように厳しい時代の中で、ユダヤ教を守り続けるエネルギーはすごいという感じ。このような歴史の周辺領域の知識に乏しい私には、多くの感動を感じながらも十分には理解できなという焦りがあった。

改宗ユダヤ人の子孫の一人であるカフカについて書かれた部分では、その『審判』という作品の意味を初めて知ることができたことは収穫だった。『審判』という作品は突然に何か理由のわからない容疑によって逮捕されたKという人物について語られていく。何回もの裁判がくりかえされ、弁護士との繰り返しの話し合いでも、何の容疑かもわからずただ右往左往させられるという物語だと、説明されていた。この時代のユダヤ人たちは、このような歴史の中で翻弄されていったのだということが、よくわかる。

2012.02.03

氷と格闘

今朝の外気は-15℃。我が家の前に農業用水路の側溝がある。幅と深さはそれぞれ30㎝くらい。道路には傾斜があるのでかなりの急流だ。気温が-15℃くらいになると、この側溝の水が凍ってしまう。水の流れが速いので、側溝の両側面に水滴がつき、そこから凍り始めるらしい。あるいは流れの中に田んぼへの取り入れ口のいろいろなしくみとか、あるいは何か流れてきた小枝とかがひっかかって、そこから凍り始めるらしい。それがだんだんと大きくなって水面を覆うようになる。そしてついには側溝の下半分は凍ってしまって、その上を水が流れるようになる。そしてやがては、全体が凍ってしまって、水が道路上にあふれ出して、道路上はアイスバーン状態になる。

特に取り付け道路や、宅地への入口などは、側溝が覆われてトンネル状態になっている。このところなどはその内部で凍ってしまう。上のほうで氷を砕いて流すと、このトンネル状の中で、流した氷の塊がひっかかってしまい、たちまち内部を詰まらせてしまう。そしてあっという間にトンネルの入り口で水はあふれてしまう。

今日午後は氷点下の気温の中で一時間ほど格闘した。ちょうどそこに市役所の巡廻の人が通りがかって手伝ってくれた。しかし道路にあふれ出た水も、すぐにシャーベット状になってしまうので、あきらめて帰ってきた。

2012.02.02

『ボヴァリー夫人』

『ボヴァリー夫人』を読み終わった。

新潮文庫、生島遼一訳、1965年発行、1992年46刷。本文だけで450ページもあった。

リアリズム文学のお手本のような作品だと言われているもの。物語がどこまでもどこまでもつながっていくのには、ただただあきれるばかりだった。小説のお手本と言われるだけあって、物語の先は予想ができるようだが、その物語のぶ厚さには圧倒される。その語り方の巧妙さについつい引き込まれて、次々とページをめくらせられる。この快感は小説読みの醍醐味ではないか。もっともっと続けてくれと叫びたくなる。「えぇっ、もう終わるの? もっと続けて!」

2012.01.14

バルガス=リョサ著『世界終末戦争』

読み終わったぁ。四六版、二段組み、706ページもあった。ペルーの作家バルガス=リョサの作品。物語の場面はブラジル。1897年に実際に起こったカヌードス戦争を題材としている。キリスト教の終末論的な教えを説く一人の男が現れ、その地方の貧しい人々や農民、奴隷たちに教えを説いた。そしてカヌードスの地に教会堂を建て集落を形成し、ついには数万人の信徒の集団が出来上がった。そのころ発足したばかりだったブラジル共和国は、この集団が共和国に反対して元の王政に戻そうとしているのではないかというわけで、軍隊を送って戦争をしかげる。ところが近代装備を誇った軍隊は、遠征の不利と、相手は農民あるいは原住民といえども、自分たちのホームグランドで戦う有利さで、あっという間に遠征軍は敗北してしまう。続いてブラジルで最強と言われる軍隊を投入するがこれもあえなく敗北。そしてブラジル共和国政府は、あらためて数万の兵を送り、カヌードスを完全包囲し、水と食料を抑えて兵糧攻めにし、攻め落としてしまう。

バルガス=リョサの作品は登場人物も数多いし、物語の展開もスピードがある。そのために読んでいると頭の中が混乱してくるようだ。しかしいちいちその混乱の中に巻き込まれていたのでは、読みとおすことができない。このことがわかって、初めてバルガス=リョサの作品『緑の家』を読んだときには、可能な限りスピードをかけて読むことがいいと思った。センテンスも決して短くはないが、その中に込められているイメージはものすごく多様である。その多様なイメージを頭の中に叩き込むようにして読んでいくのは大変に疲れる作業だ。しかしそのイメージの塊が非常に魅力的である。その多様なイメージの中に浸っていることが、ほかの作家では得られない魅力なのではないか。

2012.01.13

『地獄の1366日』オム・ソンバット著

カンボジアの作家オム・ソンバットという人の書いた『地獄の1366日』という本を読んだ。これは大同生命保険会社が拠出している「大同生命国際文化基金」というものによって発行された。上田の図書館にそのほか東南アジアの国々の著作が全集として出版され図書館に寄贈されたもの。その中の一冊。図書館の書棚から抜いて解説を読んで即借り出してきたもの。

「カンボジア」と「地獄」というキーワードを見れば、それがすぐにポル・ポト政権時代の悲惨な歴史を意味していることが分かった。2007年2月28日の発行。四六版ハードカバー、二段組み487ページ。訳者あとがきを含めて500ページの大作。

この作家はプノンペンに住んでいたが、ポル・ポトの極端な共産主義政策によって、人間社会を組み立てていたあらゆる仕組みのすべてが否定されて、新しい国づくりを強引に推し進めるということになった。この急進的な政策によって作者もその家族、親族らとともに都会の生活を追い出されて、農村地帯に強制的に連行され、新しい村づくりを強いられることになる。そこには何の組織も作られていなかったために、人々はただ森林や農地に投げだされた恰好となり、住むところもなく、食べるものもないという状況になった。そして少しでも組織に反抗をすれば、有無を言わせずに殺されてしまうという恐怖の中で生きることになってしまう。

作者は日記を書く習慣があったが、ノートなどに書いていればたちまち怪しまれるので、ノートの切れ端やセメントの袋などを利用して、克明に記録をし続けた。それらを基にして、この「地獄」の期間の終了後に、この大作をまとめ上げた。

描かれているのは、食べ物がほとんど支給されないという状況の中で、いかにして飢えをしのぐかということが中心で、その次には強制労働の話、そして家族の死など。物語を創作したものとは違って、日時用の出来事を綴ったものなので、物語の展開に劇的なものはない。淡々と語られていくし、同じようなことが繰り返されていく。

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