バルガス=リョサ著『世界終末戦争』

読み終わったぁ。四六版、二段組み、706ページもあった。ペルーの作家バルガス=リョサの作品。物語の場面はブラジル。1897年に実際に起こったカヌードス戦争を題材としている。キリスト教の終末論的な教えを説く一人の男が現れ、その地方の貧しい人々や農民、奴隷たちに教えを説いた。そしてカヌードスの地に教会堂を建て集落を形成し、ついには数万人の信徒の集団が出来上がった。そのころ発足したばかりだったブラジル共和国は、この集団が共和国に反対して元の王政に戻そうとしているのではないかというわけで、軍隊を送って戦争をしかげる。ところが近代装備を誇った軍隊は、遠征の不利と、相手は農民あるいは原住民といえども、自分たちのホームグランドで戦う有利さで、あっという間に遠征軍は敗北してしまう。続いてブラジルで最強と言われる軍隊を投入するがこれもあえなく敗北。そしてブラジル共和国政府は、あらためて数万の兵を送り、カヌードスを完全包囲し、水と食料を抑えて兵糧攻めにし、攻め落としてしまう。

バルガス=リョサの作品は登場人物も数多いし、物語の展開もスピードがある。そのために読んでいると頭の中が混乱してくるようだ。しかしいちいちその混乱の中に巻き込まれていたのでは、読みとおすことができない。このことがわかって、初めてバルガス=リョサの作品『緑の家』を読んだときには、可能な限りスピードをかけて読むことがいいと思った。センテンスも決して短くはないが、その中に込められているイメージはものすごく多様である。その多様なイメージを頭の中に叩き込むようにして読んでいくのは大変に疲れる作業だ。しかしそのイメージの塊が非常に魅力的である。その多様なイメージの中に浸っていることが、ほかの作家では得られない魅力なのではないか。

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『地獄の1366日』オム・ソンバット著

カンボジアの作家オム・ソンバットという人の書いた『地獄の1366日』という本を読んだ。これは大同生命保険会社が拠出している「大同生命国際文化基金」というものによって発行された。上田の図書館にそのほか東南アジアの国々の著作が全集として出版され図書館に寄贈されたもの。その中の一冊。図書館の書棚から抜いて解説を読んで即借り出してきたもの。

「カンボジア」と「地獄」というキーワードを見れば、それがすぐにポル・ポト政権時代の悲惨な歴史を意味していることが分かった。2007年2月28日の発行。四六版ハードカバー、二段組み487ページ。訳者あとがきを含めて500ページの大作。

この作家はプノンペンに住んでいたが、ポル・ポトの極端な共産主義政策によって、人間社会を組み立てていたあらゆる仕組みのすべてが否定されて、新しい国づくりを強引に推し進めるということになった。この急進的な政策によって作者もその家族、親族らとともに都会の生活を追い出されて、農村地帯に強制的に連行され、新しい村づくりを強いられることになる。そこには何の組織も作られていなかったために、人々はただ森林や農地に投げだされた恰好となり、住むところもなく、食べるものもないという状況になった。そして少しでも組織に反抗をすれば、有無を言わせずに殺されてしまうという恐怖の中で生きることになってしまう。

作者は日記を書く習慣があったが、ノートなどに書いていればたちまち怪しまれるので、ノートの切れ端やセメントの袋などを利用して、克明に記録をし続けた。それらを基にして、この「地獄」の期間の終了後に、この大作をまとめ上げた。

描かれているのは、食べ物がほとんど支給されないという状況の中で、いかにして飢えをしのぐかということが中心で、その次には強制労働の話、そして家族の死など。物語を創作したものとは違って、日時用の出来事を綴ったものなので、物語の展開に劇的なものはない。淡々と語られていくし、同じようなことが繰り返されていく。

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‎2012年1月1日

《灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである》。こんなすごいことばが、この社会で聞かれなくなっているということは、とても悲しい。キリストの再臨への希望と確信が、キリスト教会の中でも聞かれなくなっているのではないかと憂えるのだが……。

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日本人も惰眠から目覚めるとき

ドミニカ共和国の大統領とも総統ともいわれるトルヒーリョの時代(1930-1961年)について扱った作品を三点読んだ。この『骨狩りのとき』はそのひとつである。そのほかのものはバルガス=リョサの『チボの狂宴』とガルシア=マルケスの『族長の秋』だ。特にこの『族長の秋』では、このような独裁者は、その国民の大衆が熱狂的に作り上げる虚構のシステムだと言っているようである。
『骨狩りのとき』には一か所、このトルヒーリョ大統領が姿を表すところがある。この大虐殺が行なわれた国境のある町に大統領はやってくる。それは大統領の楽団が華やかに音楽を演奏する中、その町の人々は熱狂的に大統領を迎えるという登場の仕方である。だかそこでは大統領令によるハイチ人たちの虐殺が同時に行われている。この物語のヒロインが、すさまじい暴行を受け、国境の川に向かって必死の逃亡の途中にあった仲間たちは、その...広場で殺されてしまう。このふたつの出来事が同時に、その町の同じ広場で行なわれる。民衆は虐殺は大統領令による当然の出来事であり、その大統領を熱狂的に支持することも当然のことであるとこの物語は語っているようである。
日本の原子力発電の始まりは、アメリカの利権の圧力によって、中曽根康弘、正力松太郎という政財界のトップたちによって始められた。この国の指導者たちは、利権に目がくらんで原子炉の危険性には目をつぶった。そして補助金を大量に交付することによって、地方行政をも手の内に入れて、原子炉を次々と造り出した。さらには教育までも手中に収めて、原子炉の安全神話を作り出して、国民の理性的判断力をも収奪していった。
ガルシア=マルケスが描き出す『族長の秋』という物語は、その訳者解説でも述べられているように、大統領には個人名が出てこない。単に「大統領」と呼ばれるだけである。そして物語の冒頭、大統領は誰にも気づかれずに死びととなったとき、大統領府の異変に気がついた市民たちは《何百年にもわたる惰眠から目が覚めた》と語られていく。日本も原子炉の爆発という異常事態に出会って初めて、惰眠から目が覚め始めたのか。いやそれでもなお目覚めないのか。

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『骨狩りのとき』2

エドウィージ・ダンティカの『骨狩りのとき』を読了した。一言で言うとだれでも人間には生きる権利があり、同時に一人の人間として死ぬ権利もあるというもの。戦争や原爆などで殺されてはたまらないのである。作品社から出版され、四六版330ページ。

この作家はハイチの女性の方である。愛し合っている二人がゆえなく引き裂かれていくという物語だ。そのせつない物語がドミニカ共和国によるハイチ人大虐殺というわずか数日でしかない社会の大混乱を背景として描かれていく。

この事件は1937年に起こった。今でも世界の最も貧しい国と言われているハイチは、当時も政治的に不安定であり、民衆は生きる方途がなく、多くの貧しい人々は隣のドミニカ共和国に出稼ぎに行った。そこではサトウキビ畑や砂糖工場の労働者として働いた。ドミニカ共和国では当時すでにぎびしい格差社会があって、最も貧しい人たちはサトウキビ畑の労働者であった。ハイチからの出稼ぎ者たちは、それよりもさらに少ない賃金でこき使われた。

この本の"The Farmming of Bones"というのは、サトウキビの堅い茎を刈り入れることを意味する日常語だと訳者あとがきでは説明されている。それほどの重労働らしい。登場人物の一人に右腕ばかりの筋肉が異様に発達した若者が出てくるが、毎日毎日一日中なたを振るうという重労働を表現していると思う。

ドミニカ共和国の総統トルヒーリョは、ハイチからの出稼ぎ労働者が待遇改善を求めてストライキに突入したのをきっかけとして、ハイチ系労働者の国外追放令を出し、1万5千人の兵が動員されてハイチ労働者の住居を焼き払い、住民は国境の川へと追い落とし、1日に3万人以上をも虐殺した。このような社会事情を背景として物語が展開されていく。

この作品は作者ダンティカの取材によっている。ダンティカは1969年ハイチの首都ポルトープランスで生まれた。おそらくハイチ人の作家としてこの大虐殺の出来事を書かずにはいられなかったのであろう。最初には旧約聖書士師記の12:4-6が記載されている。そういえば聖書の中には大虐殺の記事が繰り返し出てくる。それぞれに意味はあると思えるが、どうして人間というものはこのように殺し合うものなのだろうと、いつも考えさせられる。

この物語には最初から終わりまで、たくさんの人たちの死が語られている。そのたくさんの死人たちは丁重に葬られることもなく、祈りもなく、終油もなく、墓もなく、ただ捨てられるように殺されていく。最初に書いたように人は誰でも自分の死に方にも自分の主張があるだろう。勝手に自分のいのちを奪われてはならないのではないか。福島の原子炉崩壊によっては死者は出ていないが、日常生活の根っこを奪われてしまったことは、死にも等しいのではないか。

今でも世界のあちこちにはこのような現実があるのを聞くことは悲しい。

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『存在の耐えられない軽さ』を読む

ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』というのを、ようやく読了した。これは難しかった。タイトルも難しいが中は哲学書を読んでいるようだった。しかしカバーの後ろ側の宣伝文句によると「究極の恋愛小説」だそうだ。

この恋愛小説は、1968年のチェコ事件、すなわちソ連によるチェコ侵攻という事件が背景になって、物語が展開する。この動乱が元になった政治的混乱の中で、作者のクンデラは国外追放を余儀なくされ国籍もはく奪されてしまう。それ以後、彼はフランスで作家として活躍する。

チェコという国は、モラビアとボヘミアという二つの歴史を持った民族によって構成されている。スメタナとかドボルザークなどという有名な交響曲作家がいる。そういう印象から私は豊かな自然環境を背景とした人々の生活を思い浮かべることができる。

医師のトマーシュと奔放な画家サビナとの出会いから物語が展開していく。ふたりは上の歴史的事件の中で愛をはぐくんでいくが、最後は結ばれずに終わるらしい。そういう物語の中で、サビナという女性の情感が生き生きと描かれていく。このサビナという女性を描く文章の隅々からは、チェコ人というのはこういう豊かな人間性を持っているのかと思わせられる。

これは映画化されている。私は多分テレビで放映されたものを見たはずだが、いくつかの場面は今でも印象的に記憶に残っている。人間一人ひとりの存在は重いものである。しかしいつの時代のどの民族の中にも政治的な動乱があり、そういう中で一人の人間の存在は揺れ動かされていく。このような時代的背景の中で、民族の豊かな歴史を物語っていくこの作品は、ほんとうにすばらしい内容を持っていると思う。とてもいい小説を読んだという気持である。

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『骨狩りのとき』

疲れていたので新しい小説を読むのを躊躇していた。しかし今日は図書館に行ったので、エドウィージ・ダンティカの『骨狩りのとき』を借りてきた。この本は今年2011年の1月30日発行だ。図書館には2月4日に受け入れられている。だからまだ借り出した人はないだろうと思っていたが、しおりひもが一番最後のところに挿入されている。それで「ああ、これはだれかすでに借り出した人がいるんだ」とわかった。

読み進めていくうちに48ページのところに図書館の貸出し票がはさまっていた。これを見ると貸し出したのは3月3日であり、同時に『農作業の絵本』というものが2-5巻までが借り出されている。絵本というのだから、母親である人がこどものために借り出したのではないかと思う。それにしても『農作業の絵本』というのはどんな絵本なのだろうと思う。

この本の原題は英語であり、"The Farming of Bones"というもの。"farming"ということばは、なんと「農作業」の意味だ。なんという一致であろうか。"Farm"というのは農場のことであり、ingがついているので、これは動詞の意味で「耕作する」「小作する」という意味だ。しかもそれに定冠詞が付いているので、「例の」「あの」というニュアンスがある。そして「骨ほねを耕作する」という意味で、それが「あの」というニュアンスで表現されている。要するにこの作品は、ドミニカ共和国のトルヒーリョという独裁者によって行なわれたという、ハイチ人大虐殺がテーマになっている。

そういうわけで訳者は『骨狩りのとき』という訳語をあてたのだろう。直訳すれば『骨ほねの農作業』だ。この本が『農作業の絵本』という子ども向きと思われる本と一緒に借り出されているということは、なんとなくミステリアスな感じがしないでもない。もしかしたらこの作品が子供向けになって出版されたのだろうか。まさか!

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マルコス・アギニス著『逆さの十字架』

四六版、330ページ(訳者解説共)。アマゾンから買った。30日に届いたので4日ほどで読み切ってしまった。一日に80ページ強を読んでしまったことになる。初めはちょっと戸惑いもあったが、途中からは一気に読み進んでしまった。

「アルゼンチン軍事独裁政権下で警察権力の暴虐と教会の硬直化をきびしく批判」(帯)した内容で出版と同時に発禁処分を受けた。しかしスペインでプラネータ賞を受賞したことによって発禁も解かれ、一躍ベストセラーとなった。

物語はアルゼンチンの一カトリック教会で起こった出来事を描いている。その教会に新しく赴任してきた若い神父カルロス・サムエル・トーレスと、アグスティン・ブエナベントゥーラ神父の二人によって、若者を中心とした宣教と対話の集会が始められる。トーレス神父は形骸化したカトリック教会を批判し、聖書の教えに忠実に従う生活を若者たちに説く。それが成功して若者たちの中に純粋にキリストに従う生き方をするものたちが集まってくる。それは同時に祭儀を軽視することであり、礼典を無視することであり、カトリック教会の組織の崩壊につながるものであった。しかしトーレス神父は、聖書そのものを解き明かし、キリストの生き方を熱心に伝える。

同時に若者たちの動きは、その時代に反政府勢力として形成されつつあった動きに組み込まれていく。これによって悲劇が起こる。反政府勢力を弾圧しようとする警察権力によって、若者たちが集う教会が襲撃される。若者たちはやむを得ず教会に立てこもることになって、ついには催涙弾が撃ち込まれて崩壊していく。

後半はこの悲惨な出来事の指導者であったトーレス神父とブエナベントゥーラ神父とが、教会の裁判に立たされることになる。トーレス神父は同席する人々は同じキリストのしもべなのだから「キリストのしもべなら、こちらの話にきちんと耳を傾け、彼らが非妥協的で偏った危険思想と見なしているものが、現実的なメッセージとして福音書の中にちゃんと息づいていることを認める必要があるだろう。教会は神の国を築くために機能すべきものであり、そうでなければ何の役にも立たない」と思い、必ずや弁明の場が与えられると期待していた。

ところがその裁判を主導した教皇大使は一方的に裁判を進め、ついにはそこに集う人びとの「破門だ! 破門だ!」という叫びで終わってしまう。この裁判の様子を描くところは、同時に福音書のポンテオ・ピラトによるイエスの裁判の記事が並行して記述される。それゆえに2000年前に書かれた聖書の記事が、そのままの迫力をもって現代によみがえってくる。

冒頭の章には不思議な金泥の沼が描かれる。その沼の「実体は旧世界を革命というフィルターで漉した残りかすがたまったヘドロの沼」、すなわち現代世界が金とその経済的権力によって支配される泥沼であることを意味している。そして突然にその沼の中に「血に染まった軍靴と十字架が降ってきて、……軍靴の中には金がどっと流れ込み、十字架もぶすぶすと途中まで沼にはまってしまったが、互いに支え合ってどうにかこうにか浮いている」。説明するまでもなく軍靴は軍事権力を意味し、十字架は宗教の権力を意味している。そして両者とも経済力という金泥の中で、金泥にまみれて互いに支え合っているという図だ。この図が最後の章にも繰り返されて、全体を締めくくっている。

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チャイコフスキーの第6番「悲愴」

今日はNHKオンデマンドでローマ聖チェチーリア国立アカデミー管弦楽団演奏の、チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」を聞いた。というか見たというのか。指揮者はポリス・ペレゾフスキー。今年10月3日にNHKホールで録画されたもの。10月23日の深夜に放送されたもの。

イタリアの楽隊ということに期待を持って聞いたが、素晴らしい演奏だったと思う。それは決して派手というものではなく、むしろ素晴らしい輝きをもった音であるように感じた。言い換えれば、N響ではありえないような音色と言ってもいいのではないか。第3楽章の後半になると、この響きが迫ってくる。それは何というのか、単に音の厚みというだけでなく、その音が作り出す不思議な色彩と魅力とをもって迫ってくる。いつもN響ばかり聞いている耳には、実に新鮮に聞こえるものだった。

特に第4楽章の終わりがこの「悲愴」では魅力的である。全楽器が作り出す深い森のような音楽の中で、チューバやホルンが深々とした低音を鳴らす。ここを楽譜で見ると、ホルンパートには全ストップという指示がある。ホルンの全ストップの音は「ビーン」というような独特の感じで聞こえる。12章節繰り返される。全オーケストラの音量がだんだんとなくなって行きやがて一種の音の空白が造り出されたその瞬間に、一発のタムタムの音が「ゴーン」と響く。この一発のタムタムの音を聞くために、第1楽章から延々と聞いてきたのだと思わせられる。

今回の演奏は素晴らしかった。聴衆の反応も割合によかった。何よりも楽隊のメンバーの中にも涙するものがあったのを見ることができたのは感動だった。

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ガルシア=マルケス著『族長の秋』

「いやぁ、すごい小説を読んでしまった」という感じ。ガルシア=マルケスの作品は前に『コレラの時代の愛』というのを読んだ。その時も感じたことだが、この人の文章は切れ目なくつながっているように感じる。特にこの『族長の秋』は、段落もなしに文章がつながっていく。途中で読みかけにしておこうと思っても、区切りをつけることができないような感じである。

主題は中米のメキシコ湾にあるドミニコ共和国にかつて存在した独裁者を描くことにあるらしい。全体の主張を見れば、独裁者というものはその人が自分で作り上げるというよりも、その周りの、利権に心を奪われた人たちが作り上げるものであり、さらにはそれを取り巻き、そういう人たちの存在をいつの間にか、あるいは仕方なく、承認していく国民、あるいは大衆によって作り上げられるものだということ。原子力発電所と利権とは切っても切り離せない。

さらにはそういう独裁者の存在そのものが現実のものなのか幻なのかもわからなくなっていくというもの。今の大衆文化というものも同じような危険をはらんでいると作家は見抜いているのではないか。ある部分には現代の大衆文化の狂乱を思わせるような部分さえある。

文章は複雑極まりない。その始まりは以下のようである。

「週末にハゲタカどもが大統領府のバルコニーに押しかけて、窓という窓の金網をくちばしで食いやぶり、内部によどんでいた空気を翼でひっ掻きまわしたおかげである。全都の市民は月曜日の朝、図体のばかでかい死びとと朽ちた栄華のくされた臭いを運ぶ、生暖かい穏やかな風によって、何百年にもわたる惰眠から目が覚めた」という具合である。

今週の日曜日を挟んで三泊四日のきびしい状況の旅をしてきた。その時もこの文庫本(集英社文庫、鼓直訳)を持って行った。しかし旅のきびしさのゆえにほとんど読み進めることができなかった。帰宅して次の主日礼拝の説教の準備も一応おわったので、残っていた三分の一ほどを一気に読んでしまった。そして読了した時の第一印象は冒頭のようである。

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