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2004.04.28

悪いやつは殺害するのが正義か

イスラエルのシャロン首相は23日、パレスチナのアラファト議長の殺害も辞さないと強行発言をした。
これを受けというわけではないが、この時期にアメリカのブッシュ大統領は、シャロン首相がパレスチナのガザ地区からの入植地撤収を歓迎する発言をして、この決定に全世界は感謝すべきだと言った(@_@)。
ライス米大統領補佐官は、シャロン首相の側近に電話して殺害はしないようにと伝えた。「アナから掘り出すくらいならいいけど」と付け加えたかどうかはわからない。

イスラエルはパレスチナの精神的指導者ヤシン氏殺害に続いて、その後継者のランティシ氏をも殺害した。その勢いでアラファト議長の殺害の意志のあることを公言した。
パレスチナ側の自爆テロが後を絶たないという現状を受けて、こんどやったらアラファト殺害だと脅しをかけたものと思われる。シャロンさんという人は、これまでもたびたびこのようなドスの利いた脅しをしています。

アラブ側は、このようなシャロン首相の強硬政策に対して、ほとんど無力の状態である。
世界中が、悪いやつは強力な軍事力で叩き潰すのが正しいという理屈に傾きつつあるようです。

将棋名人戦第二局

羽生さんの連敗になりました。
それにしても森内挑戦者の将棋は、相手に一歩も許さないという厳しい指しまわしですね。
このまま行ってしまいそうですね。

2004.04.27

映画を見て召天しよう

 26日(月)の毎日新聞夕刊に『パッション』という映画の広告が掲載されました。
 この映画はメル・ギブソンという方が監督して作ったものです。イエス・キリストの十字架物語を、聖書が記録しているそのとおりに映画にしたものだそうです。「パッション」というのは「熱情」とか「情熱」という意味ですが、この場合にはキリストの「受難物語」という意味です。公開は5月1日なので私もまだ見てはいないのです。扱われているテーマが聖書のものなので、キリスト教会では早くから話題になっていました。

 メル・ギブソンは、これを徹底して忠実に映画にしたということで、せりふも当時のヘブル語とラテン語でしゃべらせているそうです。また画家カラヴァッジョの作品を参考にして画面作りをしているということで、新聞の広告に載った絵柄は、カラヴァッジョの作品そのまんまですね。

 ただ、十字架の場面があまりにもリアルに描かれていて、残酷すぎるという批判があります。アメリカで上映したときに、観客の中にあまりの残酷さにショックを受けて死んだ人が出たそうです。この広告にも次のようなコピーが踊っていました。「50代の女性、十字架刑のシーンでショック死」「ブラジルの牧師、鑑賞中に死亡」。まさか配給会社は、観客が死ぬことを願っているのじゃないでしょうね。大きな声ではいえませんが、万が一死ぬ人が出たら、またまたそのニュースを使って宣伝するのでしょうかね。

 最近の映画作品は残酷な場面がだんだんと派手になっていく傾向があります。あまり良い傾向ではないと思います。この映画もその流れの中にあるのではないかと思います。聖書が語っている歴史は、十字架刑の残酷さよりも、人間の――聖書のことばを使えば「罪」の――不気味さですね。そして聖書はむしろ、十字架に続く復活の喜びと、キリストの復活が語っている「和解」の事実であります。残酷さばかりが強調されるよりも、この和解の福音が語られることが重要だと思います。

 ユダヤ人団体からクレームがあるそうです。この映画では、ユダヤ人がキリストを残酷に処刑したということが強調されていて、反ユダヤ主義だというのです。事実はそうかもしれません。しかし同時に、キリストの復活の後に、世界中に向かって和解の福音のメッセージを担ったのも、ユダヤ人であったのも事実であります。

2004.04.26

将棋名人戦第二局

将棋名人戦第二局が始まった。
横歩取りの将棋になって、羽生名人が8五飛戦法に出た。あとはこれしかないという手順で進んで、早くも終盤戦の様相を呈して、第一日目を終わった。五時過ぎにテレビを入れて、あまりにも早く進んだ局面にびっくりしてしまった。しかし8五飛戦法ではこうなるしかないという手順らしい。

羽生名人が1八飛と打ち込んで王手したところで封じ手となった。
解説の加藤一二三9段によれば、これからもまだまだ難しい局面が続くらしいが、この戦法は、ほとんど一直線に進んでしまうようである。どちらか間違ったほうが負けということになるのではないか。
互いにきわどい手順を強いられる。見ているほうは手に汗握るという場面が続く。明日が楽しみ。

2004.04.24

イエス・キリストの十字架物語 8

 36節から46節までは、「ゲツセマネの園での祈り」と呼ばれていて、十字架物語の中でも、非常に印象的な場面です。ゲツセマネというところは、いまでもオリーブの木がたくさんある美しい庭園です。いまでもこの所はイエスさまが最後の祈りをささげた場所として保存されているのです。この近くには全世界から集められた献金で建てられたという「万国民の教会」という名の、立派な教会堂があります。この教会は別名「苦悶の会堂」(Basilica of Agony)と言われます。それはイエスさまの苦悶の祈りから名づけられたのです。

 1. イエスの悲しみの祈り
26:36 それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」
26:37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
(聖書の引用は『新改訳聖書』からです)

 イエスさまは、弟子たちの中からペテロと、ゼベダイの子ふたりをいっしょに連れて、園の奥に入られます。ゼベダイの子の二人というのは、ヨハネとヤコブのこと。この三人は弟子たちの中でも中心的な存在であったのでしょう。

 「イエスは悲しみもだえ始められた」とあります。この悲しみもだえは、①ここまでのイエスさまの働きが公には受け入れられなかったことの悲しみ。②人々のたましいが救いと遠く離れていることへの悲しみ。③ご自身がこれから歩まなければならない苦しみの道を思う悲しみともだえ、などを表わしているようです。
 神の御子であるのに、なぜ悲しみもだえるのかという疑問があります。ここではイエス・キリストが神であると同時に人でもあるという、その人としての有様が現われていると考えられます。

 その悲しみともだえの中から、イエスさまは弟子たちに「わたしといっしょに目をさましていなさい」と言われます。しかし続きを読んでいくとわかりますように、弟子たちは目を覚ましていることができなかったのです。それはすでにこのとき真夜中だったからです。

ゴキブリ戦争

私の家内は、かつてはゴキブリを見つけると、スリッパ片手に突進して一撃を加えるという戦略を誇っていた。
そのすばやい行動には、いつもすばらしい芸術作品を見ているような、一種の感慨があった。

ところがある日、食卓の椅子に座っていた私をいきなり突き飛ばしてゴキブリに突進した。
で、突き飛ばされた私は、おもわず叫んでしまった。
「亭主とゴキブリと、どっちが大事だ!」と。

ブッシュのイラク戦争を皮肉っているわけじゃないんですがね。

2004.04.22

イエス・キリストの十字架物語 7

ペテロのつまずきの予告

26:30 そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。

 最後の晩餐という儀式を終えると、イエスさまは弟子たちを連れてオリーブ山へと向かいます。
 このときはすでに夜になっていたのではないかと思います。最後の夜の食事をしたところは、シオンの丘にある一軒の家だと考えられています。したがってイエスさまと弟子たちの一行は、この家を出て、丘を下って神殿の南側に出て、そこをさらに下って、ケデロンの谷に下り、その谷の向こう側にあるゲツセマネの園と呼ばれるところまで行ったと思われます。そこはオリーブ山のふもとに当たります。

26:31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。
26:32 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」
26:33 すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」
26:34 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
26:35 ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。
(聖書の引用は『新改訳聖書』からです)

 ここに記されているイエスさまと弟子たちとの対話は、この途中で、歩きながら交わされた会話なのでしょう。
 イエスさまが言われたことには二つのポイントがあります。一つは弟子たちに対して「あなたがたはみな、わたしのゆえにつまずく」というものです。もうひとつはよみがえりの後、ガリラヤへ行けというものです。
 弟子の一人のペテロは、びっくりして反論します。「じょうだんじゃありませんよ。先生。ほかの者がみんなつまずいたとしても、わたしゃぁ絶対につまずきませんよ。絶対に!」というわけです。
 しかしイエスさまははっきりと言われました。「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います」。
 ペテロは悲しくなって言います。「たとい死ぬようなことがあっても、先生を知らないなどとは、決して言いません」と強く否定します。そしてこの福音書を書いたマタイさんは、さりげなく「弟子たちはみなそう言った」と付け加えています。マタイさんもその場にいたのです。そしてイエスさまとペテロの会話を聞いていたのです。そしてマタイさん自身もペテロと同じように思ったことでしょう。

 イエスさまが置かれている状況が、よくわかっていなかった弟子たちにとっては、みなが同じように決意したことでしょう。それはごく普通のことだったと思います。ですからこれを読む者たちには、じつに素直に共感できる記事です。だれもが、もし自分もそこにいたなら、同じように反応したことだろうと、納得するのです。

2004.04.20

イラクの人質事件

 イラクで拘束されていた5人が帰国した。ご苦労様でしたと言いたいです。

 しかし彼らに対する日本国内でのバッシングは、ちょっとひどかったのではないでしょうか。互いに意見を交わすことは自由であるし、何を発言するかも自由である。しかし個人の人格を無視した誹謗は、ちょっとひどいと思う。読むに耐えないのであまりたくさんは読まなかったけれども……。

 このようなどろどろしたネット上を歩き回っていると、ほんとうにめいってしまう。
 《兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なこと、また、徳や賞賛に値することがあれば、それを心に留めなさい》(新約聖書・フィリピの信徒への手紙。引用は『新共同訳聖書』からです)。
 気がめいるようなことばかりが続くこのごろですが、聖書のことばにほんとうに慰めと励ましを味わっています。
 悲しみは早く終わりにしたい。

2004.04.19

イスラエル、ランティシ氏をも殺害

 イスラエルはヤシン氏暗殺に続いて、その後継者ランティシ氏も暗殺した。

 イスラエルは何を考えているのだろうか。国際社会はこれに対して何も強力な行動が取れないのだろうか。世界の状況は、ますますアラブへの圧力を強める傾向にある。アラブは押さえつけ、叩き潰し、抹殺してもいいものという理解が浸透しつつあるように見える。

 イスラエルのシャロン首相は、ガザ地区から入植地を撤退すると公表しているが、入植地を撤退した後は、ガザ地区をまるごと破壊してしまうのではないだろうか。

2004.04.17

何が今、大切な行動なのか

 イラクの三人の日本人が開放されたというニュースでは、日本人全体が胸をなでおろしたことでしょう。しかし状況は違っても、同じように異国の権力によって家族が離れ離れになっている人たちにとっては、非常の複雑な思いであったと思う。

 この出来事に関して、さまざまな意見が交わされてきた。なかでも危険地帯だからという警告を無視して行ったのだから、自己責任だという主張はかなりあった。危険地域であっても、飛び込んでいくというところに、日本人の危機に対する判断の甘さがあるのではないかとも言われている。いろいろな考えはあるのだろうが、このとき、この事情の中で何らかの意見を言うことは、非常に難しい状況なのではないか。
 自衛隊は、たしかに危険でないところを選んで行ったのだということは言えると思う。完全武装で行かなければ、結局はいのちが危ないのであり、あとは自己責任だよということになるのか。自衛隊も最終的には自己責任なのか。あるいは小泉さんの責任なのか。
 素手であっても、なんとか現地の人たちの助けになりたいという熱い思いと、完全武装に身を固めて安全地帯を選んで行動し、水汲みをすることと、どっちが重要な働きなのだろうか。これもまた容易に判断はできない。

2004.04.15

人質解放

 今日、イラクで拘束されていた三人の日本人が解放されたと、毎日新聞が伝えている。
まあとりあえずは関係者はほっとしていることでしょう。おつかれさまでした。

一青窈という歌手

 最近、独特のフィーリングで歌う一青窈という歌手がいますね。「ひととよう」と発音するのだそうですね。
 この方は台湾の出身だそうですが、台湾のことばで「一青」というのは「ひとと」と発音するのでしょうか。どなたか知っている方ありますか。この名前の由来など知りたいと思います。

 この方のステージのビデオを見ましたが、独特の雰囲気がありますね。いままでの日本のポップスの歌手も、このような歌い方をする人はいなかったのではないかと思うのですが……。

将棋名人戦

 将棋の名人戦が始まりました。
 第一戦は意外にも羽生さんの負けになりました。
 4時からのNHKテレビ中継を見たのですが、この一時間ほどの間に千日手になりそうになってはらはらしましたが、森内さんのほうが打開策に出て、そのまま押し切ってしまいました。羽生さんのほうに作戦の誤算があったのではないでしょうか。

 毎日新聞のホームページで「名人戦7番勝負どうなる」という投票欄ができています。このアンケートを見ますと、半分以上が羽生さん勝ちを予想しています。それだけ羽生ファンが多いのでしょうね。でも最近の森内さんの差し回しを見ていると、ちょっとこれに対抗できる人はいないのではないかとも思わせられています。その緻密に計算されたような差し手は、ほんとうに驚かされます。

たいへん面白い対戦が期待できそうですね。

2004.04.14

新しい曲を作りました

  という曲を公開します。この題は旧約聖書の詩篇17篇8節からとりました。この詩篇はイスラエルのダビデ王さまの作とされています。悪者から、貪欲な敵から守ってくださいという祈りです。

 これは"Reason"というシーケンサーで作りました。このソフトは、ソフト上にいくつものシンセサイザーをマウントして使うという、なかなかの優れものです。使い勝手もなかなか軽快で、お勧めモノです。
 しかし、短い曲はともかく、長い曲を作るのは難しいですね。なんとか挑戦中ですが、取り組んでいる時間もないので、満足できるものにはなりませんね。この曲も公開したのはいいけれども、本人は後悔しています!(^^)!

記事の訂正です

 暦が進んでしまって、すでにイエス・キリストの復活を記念する「復活日」は過ぎてしまいました。この日までに十字架物語を終わらせようと計画していましたが、終わりませんでした。でもまだ終わりまで続けます。引き続き読んでください。
 
 ぼんやりしていて今日気がついたのですが、「イエス・キリストの十字架物語」の№5の「イスカリオテ・ユダの裏切り」のところがダブっていました。申し訳ございません。今日、一つを削除して続きを載せました。

イエス・キリストの十字架物語 6

 過越しの食事という儀式の中心は次のところです。

26:26 また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
26:27 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
26:28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
26:29 ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
(聖書の引用は『新改訳聖書』からです)

 「聖餐式」というのはプロテスタント・キリスト教会が行なっている礼拝儀式の一つです。「聖餐式」は過越しの食事という儀式が原型になっています。この福音書の著者マタイさんが書いたものには、「以後、これを行なえ」という指示はありません。しかし最初のクリスチャンたちは、ここでも言われているように新しい「契約の血」という理解で、パンと「杯」すなわちぶどう酒を分け合うという儀式を取り入れたものと思われます。この理解には学問的に非常に複雑・多様な解釈があります。

 いずれにしてもこの著者のマタイさんは、この過越しの食事の席に、実際に同席していたと考えられます。そしてイエスさまが言われたことなどを記録していると考えられます。マタイさんが記録していることは、パンがイエスさまのからだをあらわすもので、「杯」すなわちぶどう酒は、イエスさまの血を表すということです。
 この「血」はイエスさまが流される血であり、それは「罪を赦すために多くの人のために流されるもの」だという意味づけです。「契約」という意識は、聖書の中に最初から一貫して存在しています。それは神さまと人間との間の契約です。人は神のことばを信じ聞き従う、神は全知、全能の御手によって人を守り、愛するという契約です。

 この契約を確かに守り行いますという意志を表すのが、旧約聖書では動物のいけにえであり、そのいけにえの血です。新約聖書では、イエス・キリストのいけにえであり、イエスさまが流された血です。そしてキリスト者は、このイエス・キリストの契約を信じ、自分自身を神にささげるということで、神との契約の関係に入ります。
 動物のいけにえから、信仰者の個人的な信仰という意志と決断へと、儀式の形態が変わったということになります。それゆえに「新しい契約」と言われているのです。最後の「父の御国で新しく飲む日まで」というのは、新約聖書が一貫して述べているイエス・キリストの再臨と、この世の終末と、新しい天と地を意味しています。

2004.04.10

イラク人質事件

 イラクで三人の日本人が拘束されて、自衛隊を撤退せよという取引が出されている。拘束された三人のご家族や関係者の方々の驚きや恐怖、そして心労は大変なことではないかと思います。神さまの助けがあるように祈ります。また小泉首相をはじめ、交渉に当たる政府の担当の方々のご苦労も、ほんとうに大変なことと推察します。

 日本政府はテロの脅しには乗らない、自衛隊は撤退しないと強い意思を示しています。これはこれで当然の対応かと思いますが、その延長上に、最悪の事態が起こったときには日本は報復するのかという疑問があります。そういうことにはならないと思いますし、福田官房長官が答えているように、今は事実確認が大切であることも理解します。
 それにしてもさまざまな憶測が飛び交い、さまざまな意見が戦わされています。現実の歴史の出来事というものは、何が正解かということが決して言えないものです。日本の自衛隊はイラクの復興のために行っているのであって、戦争に行ったのではない。アメリカとは違うとは言うものの、向こうに言わせれば、同じような制服を着て、武器を持って来ているのだから、平和のために来たとは見えないのではないでしょうか。平和のために行くのなら、制服や火気は必要ないと、私は個人的には思うのですがね。

 たとい民族が違い、ことばや習慣や宗教が違っていても、互いに同じ人間であることを忘れてはならないのです。人間であるということは、それぞれに生きている、いのちがあるということなのです。この事実はその人のものであり、他人がそれを破壊していいというものではないはずです。むしろ互いに生きることを守り育てていかなければならないものでしょう。互いに「生きるということ」を尊重し合わなければならないのです。

 今は人が人として生きることよりも、「よろいかぶと」を突き合わせて生きているようです。それぞれにイデオロギーだとか、宗教的確信だとかという「よろいかぶと」を着ています。このようなもので互いに角突き合わせて生きるのは、自由からの逃走だとE・フロムは言っています(E・フロム『自由からの逃走』)。人間そのものとして生きる自信を失っているからだというのです。
 互いに人として生きることを尊重しようという勧めは、M・L・キング牧師が主張し実践したことです。キング牧師は黒人として白人社会から虐げられているという人間ではなく、互いに生きることを尊重しあうことが大切と語り、黒人たちに白人を尊敬するように、それによって黒人として生きる存在を確認し、生きる自信を持つようにと説得しました。同時にこれは、白人たちにも黒人を尊敬するようにという要求になったのです。

 武器や権力をもって相手をたたきつぶすことが、歴史の現実の中では正解のように見えます。しかし後になって歴史を振り返るとき、互いの生きる権利のために素手で戦った人々のことは、必ず記憶されるものです。

2004.04.08

靖国神社参拝は違憲 続き

 小泉純一郎の靖国神社参拝は憲法違反だという福岡地裁の判決をめぐって、いろいろな反応があります。
 小泉総理は「なぜ憲法違反かわからない」と言ったということですが、本気で言っているのでしょうかね。古賀誠日本遺族会長は「遺族会は首相の靖国神社公式参拝を定着させるよう念願してきた。判決はまことに残念だ」と発言しています。日本遺族会にとっては内閣総理大臣が靖国神社に参拝することに意味があるのであって、その肩書きの下につく個人名はだれでもいいのです。だれでもいいというわけではないでしょうが、そのときの総理大臣の現職にある者の名前が記されればそれでいいのです。
 福田官房長官は小泉首相の「内閣総理大臣」という肩書きは「所番地みたいなもの」と言ったというのですが、ぜんぜんそうではないですよね。「内閣総理大臣」という肩書きが問題なのです。そこが重要なところで、公人か私人かという議論以前の問題なのですよね。

 福岡地裁の亀川清長裁判長は、判決文の最後にこのように述べています。
「しかるに、本件参拝は、靖国神社参拝の合憲性について十分な論議も経ないままなされ、その後も参拝が繰り返されてきたものである。こうした事情にかんがみるとき、裁判所が違憲性について判断を回避すれば、今後も同様の行為が繰り返される可能性が高いというべきであり、当裁判所は、本件参拝の違憲性を判断することを自らの責務と考え、前記の通り判示する」。
 この発言は重要です。これまでの司法の判断の不明快さをついて、憲法違反であることをより明確に表現したといえるではないでしょうか。皮肉なことに、原告が訴えた損害賠償については却下されましたので、国は実質的に勝訴したことになってしまって、司法の席ではこれ以上何も言えなくなってしまったという結果になりました。

2004.04.07

イエス・キリストの十字架物語 5

イスカリオテ・ユダの裏切りの予告

26:20 さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。
26:21 みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」
26:22 すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言った。

 このときイスカリオテ・ユダも、その食事の席にいっしょにいました。彼はすでに祭司長たちと裏切りの取引をしていました。現金はまだ受け取っていなかったかもしれませんが、すでに裏切りの決意を固めてこの席についていたのでしょう。
 イエスさまはそのことをすでに見通しておられて、「あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります」と予告なさいました。このときの弟子たちの驚きと動揺の様子を描いたのが、ミケランジェロの「最後の晩餐」という作品だと言われています。弟子たちは「まさか私のことではないでしょうね」と、口々にイエスさまに問いかけます。

26:23 イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。
26:24 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
26:25 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ。」と言われた。
(聖書の引用は『新改訳聖書』からです)

 イエスさまは、裏切り者イスカリオテ・ユダにはっきりと「おまえだ」と言われます。ほかの福音書と照らし合わせると、ユダはこの後すぐに食事の席を立って祭司長たちのところに行き、イエスさまの逮捕の打ち合わせをしたものと思われます。

小泉首相の靖国神社参拝は違憲

 小泉純一郎首相の靖国神社参拝は政教分離を定めた憲法に違反すると主張し、九州・山口県などに住む211人の人たちが起こしていた裁判の判決がありました。判決は原告の請求どおりに、小泉首相の靖国神社参拝は憲法に違反するとした。

 判決は、政府が戦没者追悼のための公営施設のあり方を考え懇談会に検討を委ねる中、小泉首相が4回も継続的に参拝したとして、「憲法上の問題や諸外国の批判を十分に承知しつつ自己の政治的意図に基づいて参拝を行った」と述べた。その上で「本件参拝直後の終戦記念日には前年の2倍以上の参拝者が参拝しており、神道の教義を広める靖国神社を援助する効果をもたらした」と指摘した。(毎日新聞)

 小泉首相は記者会見で、なぜ憲法違反かわからないというようなことを言っていました。「内閣総理大臣・小泉純一郎」という署名をしたということや、公用車を使ったということなどから、総理大臣の公的参拝と言えるのではないでしょうか。公的参拝がなぜ悪いと開き直っているようですが、過去の日本の歴史をよく分析して、対処しなければ、このような強硬な主張は将来に禍根を残すのではないでしょうか。
 それにしても日本の精神的な土壌は、現状分析にきわめて非論理的ですよね。なぜでしょうね。和辻哲郎という日本の哲学者が、日本の敗戦の直後に書いた大作『鎖国』という本で、日本の敗戦の悲劇は、日本の精神的土壌にある非論理性だと指摘しています。この主張に謙遜に耳を傾けなければいけないのではないでしょうか。

牧師のお仕事

 牧師の仕事の中心は、信徒を励ますということに尽きると思います。
 かつては「伝道」と言って、一般の人たちに聖書の教えを語ってキリストを信じるように勧めることが主な働きでした。最近は、信徒を取り巻く状況が大きく変化しましたので、牧師が対応する働きの現場も、幅広い対応を求められるようになりました。
 たとえば今は家庭を取り巻く状況が多様化しています。思春期の年齢にある子どもたちに、どのように対応するのかは、どの親も大変悩むことです。そして同時に夫婦間の問題もあります。私は小学生の子どものいる家庭の夫婦には、この時期が夫婦にとってはもっとも安定している時期だから、子どもはほっといても、夫婦の関係をしっかり築くようにと勧めます。そうでないとすぐにやってくる子どもの思春期の荒波を乗り越えるのが容易でなくなるよと、注意しています。

 特別な問題もなく、この時期を乗り越えられればいいのですが、子どもの非行の問題、さらには夫婦の危機、精神的な病が起こること、DV、あるいはリストラだ、会社の倒産だという問題まで、信徒が抱える問題は多様化しています。牧師はそういうこの世の荒波の中でもまれて苦しんだり、気が狂いそうになったり、精神的な病で落ち込んだりという人たちに、何らかの対応を要求されるものです。

 今週も、そういう方々を家庭に訪問して話を聞き、慰めを語り、神さまの愛を伝えることがありました。今週は特に、キリスト教会では「イエス・キリストの受難週」といって、キリストが十字架につけられた記念の日が、9日(金)になります。私の教会では、この日の夜にはキリストの十字架を記念する「受難日礼拝」というのがあります。というわけで今週はまことにあわただしく過ごしています。
 そして11日は、キリストの復活を記念する喜びの日になります。

2004.04.06

「粛々と」とは何の意味?

「粛々と」ということばを政治家はしばしば使いますが、この意味は何でしょうね。有名なことばは「鞭声粛々夜河を渡る」というものですよね。でも私には不思議な感じを受けるのですが。政治家が好んでこのことばを使うときには、反対するものたちの激しい反対に出会っても、「粛々と審議を進めていくだけです」というように使われるのですが、この場合にどうも、どんなに反対があっても、そういう反対には妨害されずに、議事を進めるという意味のようですね。言い換えれば、反対意見には惑わされずに、さらに言えば、「反対論などには耳を貸さずに議事を進めるんだ」という決意のように使われるようですね。

(01/7/15)  辞典によれば、「粛々と」という言葉は「ひっそりと静かに」「厳かでひきしまって」「謹んで」等を意味する。私は「鞭声粛々夜河を渡る」の故事を真っ先に思い出す。本来は悪いイメージの言葉ではない。しかしこれを官僚が……使うと不快な意味合いを帯びる。「隠密に」「批判に耳を貸さずに」「命じられたままに」等を意味するように聞こえるのである。

この文章は東京大学大学院の数理科学研究科所属の数理心理学者・五味健作氏のホームページにある「定型随想」のひとつ。やっぱり同じような印象を持つ人がいるものですね。

2004.04.02

上信越道ドライブ

 長野県のセカンドハウスから31日には帰ってきていました。二泊三日の強行スケジュールでした。
 今年は思ったよりずっと暖かくて、良かったです。毎年、住宅の水周りを凍らせてしまって損害を受けますが、今年はシャワートイレのタンクの水抜きを忘れて帰ったものですから、またまたやられてしまいました。寒冷地に住むのはなかなか大変です。

 上信越道の軽井沢インターから向こうが四車線完成して、快適なドライブを楽しむことができるようになりました。  4000メートルの八風山トンネルも、あっというまに通過してしまうという快適さです。
 佐久インターから東部インターまでの間は、実に美しい風景です。浅間山から黒斑山、高峰山、湯の丸山と続く尾根から、長くすそを引く高原を横切って高速道路が続きます。南側には小諸の町を越えて八ヶ岳の連山を遠望できます。春の木々の芽吹きの時期、秋の紅葉の時期などは特に美しいです。今回は芽吹きにはちょっと早かったのですが、春独特の一面ブルーの色に染まっていました。

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