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2004.06.17

イエス・キリストの十字架物語 14

 裁判はカヤパの家の中でなされていたと思われます。事の成り行きを見守る人々は、カヤパの家の中庭に集まって様子を伺っていました。春先のことですからまだ夜中から明け方にかけては気温が下がっていたのでしょう。ほかの福音書を見ますと、人々はたき火をして温まっていたとあります。ペテロもそこに居たのでしょう。かれは周りの人たちに気づかれないように顔を隠すようにしていたのではないかと思われます。自分もイエスさまの弟子だったとわかると、捕らえられてしまうかもしれないとおびえていました。またどうしてこういうことになったのかも、彼には皆目見当がつきませんでした。ですからこれからどうなって行くのかもわからずに、不安におびえていたことでしょう。寒さだけでなく、ペテロはそういう不安や恐怖に、ぶるぶると震えていたのではないでしょうか。

26:69 ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」
26:70 しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない。」と言った。
26:71 そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」
26:72 それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない。」と言った。
26:73 しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言った。
(聖書の引用は『新改訳聖書』からです)

 ペテロはガリラヤの出身でした。ガリラヤというのはいわば田舎でありますから、ガリラヤ地方のなまりがあったのでしょうね。ここで交わされた会話はごくわずかですが、そのわずかなことばの中にもガリラヤ地方のことばのなまりが聞き取れたのでしょうね。顔を知られている上に、ことばのなまりまで指摘されてペテロは震え上がります。

26:74 すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。
26:75 そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。
(聖書の引用は『新改訳聖書』からです。以下同じ)。

 ゲツセマネの園でイエスさまが弟子たちみんなの裏切り予告をなさいました。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです」(26:31)と言われたのです。
 そのときペテロさんは大いに意気込んで、「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」と言います。このペテロさんの決意に対してイエスさまはペテロのつまずきを予告されたのです。
 「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」(26:35)。しかしペテロは言います。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」。
 この時はもう明け方になっていましたから、鶏が鳴く時刻なのでしょう。ペテロがあなたもあの人の仲間だと言われて、「いや。絶対に違う」と力を込めて否定したとき、ちょうど鶏が鳴いたのです。その声を聞きながらペテロはイエスさまのことばを思い出したのです。あのとき「自分は絶対につまずきません。ほかのものが全部つまずいたとしても、私は決してつまずきません。たとい死ぬようなことがあっても、イエスさまを知らないなどとは決して言いません」と言った、あの決意を思い出したのです。そしてあのときの決意はいまや跡形もなくなくなっていたのです。そのことに気づいてペテロは愕然としました。そして胸の中にこみ上げてくるものがあって、彼はその場から逃げるようにしてカヤパの家の中庭を出ると、激しく泣いてしまったのです。

 ルカの福音書にはイエスさまがそのペテロをふりかえって見つめられたとあります。それが事実であったかどうかは別にしても、ペテロには、イエスさまの視線が確かに感じられたのです。でもそこにあったのは、ペテロのつまずきを非難するイエスさまの目ではなく、このようにふがいないペテロをあわれむイエスさまの目でした。ペテロはそのようなイエスさまのお姿を心の中に感じながら、イエスさまの大きな愛と、自分自身のふがいなさ、イエスさまを知らないなどと言ってしまった自分の罪深さに、彼は耐えられなかったのではないでしょうか。でもそこにはイエスさまの愛の目があったのです。ペテロさんはこのイエスさまの愛の目に支えられて、もう一度、立ち上がることができたのです。
 このペテロさんの失敗は、四つの福音書のどれにも同じように記されています。でもそれぞれの福音書を書いた著者たちが、みんなこのことを目撃していて書いているのではないでしょう。これはみんなペテロさん自身の告白に基づいているのです。
 
 私たちはみな、自分の罪を深く自覚し、その罪を告白し、イエスさまの赦しを経験するとき、罪の中から解放されるのです。自分の中に罪がありますと告白しない限り、赦されることはありませんし、罪から救われることはないのです。イエスさまは私たち、罪深い者のためにも、その限りない愛を注いでいてくださるのです。自分の罪の深さに気づいて涙するペテロを、哀れみの目をもって見つめてくださるイエスさまが、私たちをも今日も、愛の目をもって見つめ続けていてくださるのです。

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