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2004.10.15

自分が信じるものにいのちをかけること

 イスラエルの人々の精神的支柱に、今も旧約聖書があることは事実なのだろうと思う。しかしそれがどこまで生きているのかは疑問。
 現代社会のいわゆる先進国と言われる国々では、宗教が人々に与える影響というものは、どの程度のものなのだろう。イスラム教徒の国々では、日に五回ですか、メッカに向かって祈りをささげるという習慣はきちんと行なわれている。あるいはそのように見えるし、そのように宣伝されている。
 しかし人々の心をどれだけ捉えているものなのだろうか。

 キリスト教の国ではその辺のことはもっとひどい状態なのではないかと思う。「葬式仏教」などと悪口を言ってはいるけれども、キリスト教の教会もそれに近くなっているのではないだろうか。すなわち天国にしか希望がないとか、死後のために心ぞなえをするとか、肉親の死に対して、何らかの回答を得たいというような、そういうニーズにしか答えられなくなっているのではないかと恐れる。もしそうだとしたら、それは由々しき問題なのではないかと思う。

 宗教が、その人の生き方の土台になっているということは、すでに過去のことになっているのだろうか。宗教よりも戦力、あるいは戦略が優先している。これはなにも戦争という場面だけでなく、企業間の戦争の場でも使われる言葉である。ラブ・シャケの精神錯乱作戦ではこのとおりのことが言われている(旧約聖書・イザヤ書36:5)。口先だけの言葉が、戦略だとか、戦力だと思っているかもしれないが、俺たちの実際の戦力を見てみろ、お前たちの城壁などはひとたまりもないよといっているのではないか。
 同じことは現代も言えるのではないか。何が戦略なのか、何が戦力なのか。人々はこの問いに日々直面させられているのではないか。そのような場面で、ヒゼキヤ王のように、まさに神のみことばにいのちをかけるという生き方は、異常に見えるだろうか。
 しかし神のことばには、やはり問題解決の糸口が必ずあると私は信じる。それは牧師だからそう言えると一般人は言うかもしれない。ダイエーとUFJとの戦いはまさに熾烈であったが、そこで神のことばはどのように働いたのか。その戦いの現場にキリスト者がいたかどうかはわからないが、いたとすれば、神のみことばの、どのことばがその人の精神的支えとなったかを知りたいと思う。どのことばによって、どういう決断をしたか、こういうことを考えてみたいと思う。
 聖書のことばは、そういうものだと私は信じる。
 何が平和なのか。何がこの現代史に確かな足跡を残すものなのかを見極めたいと思う。

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