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2007.01.21

『白鯨――モービィ・ディック』

長文

 メルヴィルの『白鯨――モービィ・ディック』を読んだ。新潮文庫版、田中西二郎訳のもの。
 この作品は英国で1851年に発表された。150年以上も前のことである。そのためか始めのうちはその古風な文体になれることが難しかった。しかし読み進むうちに、非常に長いセンテンスの中に心地よいリズム感があるのに気づき、それがむしろ魅力となって、テンポを上げて読み進むことができた。訳者の工夫が感じられた。この作品が発表された頃には、抹香鯨の脂はランプの貴重な油であったらしい。それゆえに多くの命知らずの者たちは鯨、それも特に抹香鯨捕りに狂奔したらしい。
 『白鯨』の内容は捕鯨船の物語であり、一頭の「モービィ・ディック」と名付けられた白鯨に片足を食いちぎられたエイハブ船長の復讐の物語である。単にそれだけではなく、作者はその時代の捕鯨という漁を詳細に語るところに目的があったのではないかとさえ思わせる。鯨の生態について、またその解剖学について、捕鯨船そのものの構造について、また乗組員の生態についてなどが、実に詳細にわたって述べられていく。
 しかしその中でも圧巻は、実際の鯨との死をかけての激しい戦いの様子である。大洋の中に鯨を発見してから、どのようにしてその獲物に肉薄し、どのようにして銛を投げ、どのようにして捕獲するのかが、実に詳細に語られていく。それは詳細に語られるだけでなく、その場面のリアルさは、それを読んでいる者も、その戦いのまっただ中にいるような、こちらまでその激しい水しぶきが降りかかってくるような迫力である。

 この物語は一言で言えば、エイハブ船長の狂気の物語であると言える。
 この作品は宗教的な色彩が濃厚である。それ故にこの作品についての紹介文には、ほとんどと言っていいほどエイハブの神は何か、また「白鯨」そのものは何かということが話題となる。しかしそれは宗教的というよりも、登場人物たちの信仰はどういうものかということが語られているのではないかと思わせられる。それゆえに人間の深みが描き出されていると言える。ここで言う「信仰」とは、その人がいのちを賭ける対象がその人の神であり、その人の信仰というのは、そのいのちの賭け方ということを、私は考えている。もちろん中心的に描かれているのはエイハブその人の信仰の問題である。
 最初の7-9章では、鯨捕りたちのための教会での説教が記されている。そこの牧師は旧約聖書の「ヨナ書」から説教している。神の預言者として召されたヨナは、恐ろしくなって神の前から逃走する。その逃避行の海上で嵐に出会い、この逃亡預言者が嵐の元凶と考えられて海に葬られる。しかし神は海に鯨(聖書では「大魚」)を備えてヨナを飲み込ませる。鯨の腹の中でヨナは悔い改めて神に祈る。すると鯨はヨナを陸地にはき出す。こうしてヨナはいやいやながら神の預言者としての責任を果たすという不思議な物語。
 作者メルヴィルはこの説教に、この物語の全体像を置いているのではないかと思う。すなわち悔い改めて神に従うことが、このエイハブの狂気に対する作者の答えなのではないかと思う。エイハブは捕鯨船の船長として多くの実績を残したが、あるとき鯨捕りの間でも伝説ともなっている白鯨に出会い、これをしとめようとして反対に片足を食いちぎられてしまう。そのエイハブは立ち直ると直ちに捕鯨船「ピークォド号」を仕立て上げて、白鯨への復讐心に燃えて出港する。

 「エイハブ」という名前は、日本語の聖書の読み方では「アハブ」である。このアハブ王の物語は旧約聖書の「列王記」という書物の中に書かれている。「列王記」というのはイスラエルの王さま列伝である。ソロモンという公私ともに実力のあった王の死後、イスラエル王国は部族間の軋轢があって、南北二つの国に分裂してしまう。北王国を「イスラエル」、南王国を「ユダ」と呼ぶのがふつうである。この北イスラエル王国は、出発と同時に、伝統的な唯一神信仰、すなわち天地創造の神、イスラエル民族をエジプトから救い出した神に従うという信仰から外れてしまう。そして分裂後ほぼ50年、政治的混乱が続く中で、オムリという実力のある王がイスラエルを治めるようになる。オムリは12年間王位にあったが、この王の治世以後ほぼ40年にして起こったエフーという将軍による大きなクーデターによって終わるまでを、「オムリ王朝」と呼ぶ。このオムリ王朝の中心的王がアハブ、すなわちエイハブである。
 このオムリ王朝時代の出来事を記述する聖書の物語は、非常に興味深いものである。それは聖書が描く他の多くのドラマティックな物語と比べても、優れてドラマティックであると言える。
 アハブ王は当時イスラエルの北にあったシドンという王国の王エテバアルの娘イゼベルを王妃として迎える。いわば縁戚関係を結ぶことによって、同盟関係を結んだとも言える。このイゼベル王妃は、身一つで嫁いできたわけではないであろう。おそらく王の娘という立場から、多くのしもべやら召使いやらを引き連れてきたことであろう。それと同時にシドンの国の神々であった「バアル」という神々信仰を大々的に持ち込んだ。そしてイスラエルをこのバアル信仰一色に塗りつぶしてしまった。しかもアハブ王はこの王妃イゼベルの尻の下に完全に敷かれるという状況となった。聖書によれば、この時代に複数の神の預言者たちが遣わされ、アハブ王に悔い改めを迫る。しかしバアル信仰の大祭司であるイゼベルの手によって激しく弾圧されてしまう。

 さて『白鯨』に話を戻そう。捕鯨船「ピークォド号」の一等航海士はスターバックという。エイハブ船長の紹介に始まって、エイハブとこのスターバックとの対決から、甲板上での大騒ぎまで、すなわち36章から40章までは、この作品の最初の圧巻である。一等航海士スターバック(「スターバック・コーヒー」の名はここから取られたともいわれている)は、「クエイカ教徒」であると紹介される。そしてこのクエイカ教徒は、一貫してエイハブの狂気に対して、きわめて良心的で常識的な判断で対立するものとして描かれる。
 エイハブとスターバックの最初の出会いは36章に描かれる。ピークォド号が出港してまもなく、エイハブ船長は乗組員全員を後甲板に集めて、この航海は白鯨すなわちモービィ・ディックに対する復讐の航海であり、必ず白鯨を捕獲するのだと宣言する。それを聞いてスターバックは、復讐するのは個人の自由だが、その危険なわざにつきあわせられるのはごめんだとかなんとか言って抵抗する。しかし一等航海士といえども、船長の言うことには逆らえない。スターバックは無理矢理同意させられ、ただ低い声で「神さま、わたくしどもみなをお護りください」とつぶやく以外になかった。38章ではスターバックのつぶやきが語られる。彼は「……神を怖れぬ人の末路は、おれにははっきりとわかっているのに、その手つだいをせねばならぬという気持ちになってしまった」とつぶやく。
 それに続いて甲板上で演じられるドンチャン騒ぎが描かれる。乗組員一同が酒を食らって甲板上で踊り狂う。エイハブとスターバックの異様な出会いに続いてこの大騒ぎは、エイハブの狂気を見事に描き出しているようである。もちろんこのドンチャン騒ぎの場面にエイハブが登場するわけではない。彼は言うことを言ってあとは船長室に籠もってしまう。しかしこの甲板上の大騒ぎは、エイハブの狂気が最初に明らかにされた直後に演じられる故に、その狂気をさらに不気味に描き出しているようである。私はこのところを読みながら、聖書の列王記に描かれるアハブ王と預言者エリヤの最初の出会いと、その直後に行われるバアルの預言者たちのドンチャン騒ぎを思い出していた。
 預言者エリヤは(この『白鯨』の16章「預言者」という章には「イライジャ」という不思議な人物が登場する。この「イライジャ」は日本語の聖書では「エリヤ」と表記される)、アハブ王の前に登場すると、「主なる神がまことの神か、バアルがまことの神か」と言って、激しく詰め寄る。そしてどっちの神がまことの神かを証明しようということで、それぞれに祭壇(いけにえの動物を焼く台)を作って、火を点火せずにいけにえが焼かれる方の神がまことの神であると提案する。バアルの預言者たちが初めに祭壇を整え、450人の預言者たちが、その祭壇の回りを踊り回って、いけにえが燃え上がるのを待つ。しかしバアルの神からは何も答えがない。預言者エリヤはその様子を見ながら、自分の祭壇を整え、いけにえの動物をその上に載せ、そして祭壇に水をたっぷりと注ぎかける。そして彼は祈る。「主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ神であり、彼らが心を翻してくださるように」と祈る。するとその水浸しになった祭壇が一気に燃え上がって、エリヤの神がまことの生きている神であることが証明されるという話である。
 450人のバアルの預言者たちは、祭壇の回りを踊り狂う。しかし何の答えもない。彼らはますます熱狂的になって踊り狂い、ついには彼らは剣や槍で自分のからだを傷つけ血を流して踊り回る。しかし何の答えもなかった。ピークォド号の甲板上で演じられた飲めや踊れやの大騒ぎと、この聖書が記述しているバアルの預言者たちの大騒ぎとが、私には重なって読めるのである。

 こうしてこの物語は、たくさんの挿話を語り継ぎながら、最後の白鯨との出会いへと盛り上がっていく。
 ついにエイハブは白鯨を発見し、三日間にわたる死闘を繰り広げる。捕鯨ボートは二度にわたって白鯨に砕かれ破壊される。スターバックが「船長もうやめよう」と何度も忠告するが、エイハブはなおも三度目の挑戦を試みる。このたびは本船「ピークォド号」までもが白鯨にかみ砕かれてしまう。エイハブはついに鯨に向かって最後の銛を投げる。銛は命中したが、銛に結びつけられている鯨索が、必死に逃げようとする鯨に引っ張られて奔流のように繰り出されていく。一瞬鯨索がもつれた。エイハブはそのもつれをほどいたその瞬間に、索が首に巻き付いて海中にさらわれてしまった。そして本船もろともすべてのものが海中に没してしまう。

 聖書のエイハブ王は、南ユダ王国のヨシャパテ王とともに、パレスチナの東方の民族アラムによって占領されていたラモテ・ギルアデという町を奪還しに行く。その戦場でヨシャパテ王は敵に襲撃されたが危うく逃げおおせ、アハブ王はその戦いでの流れ矢に当たって、あえなく戦死してしまう。このアハブ王の死とともに、イスラエル王国の力は衰退に向かい、アハブ王の死後十数年で起こったエフー将軍による大革命によって崩壊してしまう。そして同時に、異教の神々バアル礼拝も大きな打撃を受けてしまう。
 聖書が描くこのアハブ王の時代、そしてオムリ王朝の盛衰の物語は、ある意味では非常に不気味な雰囲気を持っている。それはバアル礼拝が持っている不気味さなのではないかと私は思う。これはまさにこの世の巨大な悪の力を表しているのではないか。『白鯨』の物語が語っていることは、モービィ・ディックによって象徴的に語られるこの世の巨大な悪の力なのであると思う。そしてエイハブは、この巨大な悪の力に飲み込まれてしまうのである。
 最後にすべてのものを飲み込んでしまったモービィ・ディックそのものは生き延びたのか。いのちあるものはすべてはやがて死ぬのであるが、この『白鯨』では白鯨そのものの滅亡は語られない。あるいは作者は、この世の巨大な悪の力というものは、決してなくならないということを暗示しているのかもしれない。それはこの世の歴史の中に生き続け、今日もなお、多くの「エイハブ船長」を飲み込んでいるのではないか。

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