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2007.04.30

楽譜の風景

 というタイトルの書物があった。岩城宏之という指揮者のもの。オーケストラの指揮者はどういうことを考えながら指揮をしているのかという興味で、この本を読んだ。ここではその本の読後感を書こうというのではない。

 私は音楽を聴くときには楽譜を見ながら聴く。ふつう「楽譜を読む」というものだが、私はあまり詳しいことはわからないので、楽譜を眺めていると言ったほうがいいかもしれない。言い換えれば「楽譜の風景」を眺めているのである。
 私の子どもの頃に、我が家には子どものための百科全書があった。それは科学や生物などというジャンル別に一冊ずつになっていた。私たち兄弟が特に愛読したのは、小話やクイズなどが書かれている一冊である。私の記憶ではその全書の中に音楽というジャンルの一冊があった。私はそれも読んだ。
 今ではそれが確かだったのかどうか、何かあやふやなのである。というのはその一冊の最後のところに、なんとベートーベンのピアノソナタの楽譜があったのである。その楽譜を特に印象深く覚えているのは、第三楽章の最後のところにある「カデンツァ」というのであろうか、下から上へと駆け上がっていく楽譜の美しさに見とれていたのを、今でも覚えている。
 このソナタの全曲が納められていたのかどうか、そこまでは記憶していない。しかしこのソナタの有名なところは第一楽章なので、子供向けの本にどうして全曲が収録されていたのかも不思議に思う。私のかすかな記憶では、もう一曲別の曲の楽譜もあったように思う。しかし収録されていたものが確かにこのソナタの楽譜であることは間違いない。成人して、しかも三十歳代の後半になって、音楽をよく聴くようになって初めて楽譜を購入したのはこの「月光ソナタ」なのである。それは子どものころの記憶が鮮明に残っていたからである。
 それ以来、ベートーベンのソナタ集、モーツァルトのソナタ集などを購入して曲を聴くようになった。それからモーツァルトのピアノコンチェルトと交響曲なども、出版されているものは全部手に入れて聴いてきた。
 その後だんだんと大きな交響曲に興味が移っていき、ブルックナー、マーラーなどの楽譜を愛読している。交響曲の楽譜は値段も高いので、もっぱらミニチュア版で頑張っているが、マーラーのものなどは、老眼になってからはかなりきついものがある。最近では楽譜を見ないで聞くと、なにか損をしたような気になってしまう。

 さて美しい曲は、楽譜を見ても美しいものである。先に書いた「月光ソナタ」の楽譜を記憶しているのも、その美しさを記憶しているのである。マーラーの交響曲などは、非常に複雑に書かれていて、音を聴きながら楽譜を追っていくのも容易ではない。
 その第一交響曲の出だしなどは、美しい楽譜の代表的なものといってもいいのではないか。最初、弦のフラジオレットでこの曲は始まる。そしてマーラーの独特の四度下降の音形が現れるとすぐに、クラリネットが特徴ある三連符のメロディを奏でる。これらの音が絡み合い、ミュート・トランペットへと受け継がれて、木管やホルンが四度下降の音形を繰り返しながら、自然に第一主題に入っていくあたりは、何度聴いても美しいと思う。
 私の持っているミニチュア・スコアでは6ページにわたる。細かく見ていくと、実に細かく、さまざまな演奏の指定が書き込まれている。オーケストラというものはこの細かい指定を実に見事に弾き分けていって、作曲家が意図している音の絶妙な響きをつむぎだすものである。ほんとうに見事というしかない。その楽譜に細かく書き込まれた指定を見ながら音楽を聴いていくと、ほんとうに涙の出るような感動を覚えるものである。

 美しい音楽は楽譜もまた美しいものである。いや楽譜が美しく、精緻に書かれているゆえに、音楽も美しく、精緻に響いてくるものなのだろう。

2007.04.17

『論より詭弁』香西秀信著

 ある書店の平積みでその本を見つけました。そのうさんくさいタイトルに惹かれたのです。
 私は論理学についての書物は何冊かを読んだことがあります。薄いものもあれば分厚いものもありました。でもいつもそのつまらない議論にはうんざりという感じで、どれも読了したものがないのです。ここで「また論理学の本か」と思いながらも、つい手を出してこの本を取り上げ、ぱらぱとめくってみると、その「序章」にこんなことが書いてあるのが目にとまりました。
 ローマ帝国のティモテオスという笛の名人が、他の教師のもとで笛を学んできた者には、二倍の授業料を請求したということが引用してありました。すなわち他の「凡庸な教師につけられた悪い癖を矯正するのは、新しくものを教える以上に困難を伴う」というのがその理由です。
 そしてこの著者もまた、「論理的思考に関する正統的な書物に学んだ後で私の本を読もうとする読者からは、定価の二倍から三倍の料金を頂きたい気がする」と書いていました。

 私はここを読んで第一感は、「ほほう。これはおもしろそうだな」というものでした。私は突然出合った本を買うかどうか決めるときはいつも、その書店のほかの書棚を眺めながら考えることにしています。そのときも「そうか。それじゃ二倍でも三倍でも払おうじゃないか」というふうに、私の気持ちは傾いていきました。もっともそれは光文社新書の一冊ですから、たとい三倍請求されたとしても2千円ちょっとですので、「まあ、ちょっとした出費にはなるが、いいか」というわけで、他の数冊の本を選んで最後に、平積みになっているところから、さっと一冊を手にとってキャッシャーに並んだのでした。

 さて読了した後、私を誘惑した序章の文章をもう一度よく読み返してみました。三倍請求されても払うかどうかを決めるためです。すなわち著者は「論理的思考に関する正統的な書物に学んだ後で私の本を読もうとする読者からは」定価の三倍を請求したいと言っているのです。とすれば私には当然、「論理的思考に関する正統的な書物に学んだ」ことがないという資格があるので、おまけに私が読み散らかした論理学の本が「正統的」であるかは確証できないので、定価の三倍という法外な請求をされても、支払わなくてもいいという「詭弁」が成り立つことがわかったのです。
 この本を読めばだれでも、この著者の言う「定価の三倍」の請求を論駁することができるようになるものです。

2007.04.08

イエス・キリストの復活

 今日4月8日はイエス・キリストの復活を記念する日。ただしこの日は毎年の暦によって移動する。今日、全世界のキリスト教会では「イエス・キリストは死者の中から復活した」という説教が語られているはず。
 キリストの弟子の一人ヨハネが記録したキリストの伝記によれば、復活の出来事は次のようであった。

 週の初めの日、私たちの今のことばで言えば、日曜日の朝早く、マグダラのマリアという婦人がイエスの遺体を納めた墓にやってきた。この墓はイエスの十字架刑が執行されたゴルゴタの丘の近くにあり、アリマタヤ村のヨセフという人の所有だったと言われている。今はこの場所に「聖墳墓教会」という名の大きな教会堂が建っており、エルサレム観光の目玉の場所になっている。
 ユダヤでの当時の墓は、自然にできた洞穴を利用して作られていた。いたずらされたり副葬品を盗まれたりしないように、洞穴の入り口は大きな石で閉じられるのが普通だった。
 十字架刑は前の週の金曜日に行なわれた。イエスの弟子たちにはこれはあまりにも突然の出来事であり、自分たちも逮捕されるのではないかという恐怖から、みな散り散りになってしまっていた。数人の婦人たちと弟子の一人ヨセフと、墓の持ち主のヨセフと、ニコデモといった人たちによって、イエスの遺体は十字架から取り下ろされてこの墓に運び込まれた。ユダヤ人の習慣は、遺体に没薬とアロエその他の香りのよい油などを混ぜたものを塗り、細長い亜麻布で巻いて墓に納めるというものであった。
 この日の日没から安息日が始まる決まりになっていた。イエスの死は突然のことであり、また安息日が始まれば、その決まりに従ってだれも自由に行動することができなかったので、不十分な処置のまま埋葬せざるをえなかった。日曜日の早朝、墓にやってきたのは、マグダラのマリヤほか数人の婦人たちであった。彼女たちは埋葬のとき不足していた油を塗り、遺体の処置を完了させることが目的で、墓にやってきた。
 途中、婦人たちは墓の入り口をふさいでいる石をどうやって取り除けようかと相談していた。婦人たちの力では石を動かすことができないと思っていたからである。ところが墓に来てみるとその石はすでに取り除けられていた。不思議に思った婦人たちが、墓をのぞき込んでみると、そこに納めたはずのイエスの遺体がなくなっているのを発見してびっくりした。
 婦人たちの中のマグダラのマリアは、弟子のヨハネとペテロがひそんでいる家にかけつけて、「だれかがイエスの遺体を盗んでいった」と報告した。ヨハネとペテロはびっくりして墓に駆けつけた。ヨハネが先に着いて墓の中をのぞきこんでみると、イエスのからだにまきつけてあった亜麻布がそのまま置いてあるのが見えた。続いてペテロが到着し、墓の中に入ってみた。ペテロは良く調べてみた。確かに亜麻布が放置されてあり、イエスの頭に巻いてあったはずの布も、そこにあった。しかし遺体そのものはなくなっていた。
 ヨセフとペテロは、遺体が盗まれたというマリヤの報告があわてた結果の見損ないなどではなくて、ほんとうだったことを確認した。二人の弟子と婦人たちは、どうしていいかすぐには考えがまとまらなかった。とりあえず隠れ家に引き上げて相談しようということになって、二人の弟子たちは引き上げた。
 マグダラのマリアは途方にくれながらもそこに残っていた。彼女は泣いていた。泣きながらもう一度墓の中をのぞきこむと、墓の中に白い衣をまとった天使と思われる姿があった。そして「どうして泣いているのか」とたずねられた。マリアは「だれかが私たちの主の遺体を盗んでいったのです。どうしていいかわからないのです」と答えた。
 そのときマリアは何かの気配を感じて、後ろを振り向いた。するとそこに一人の人物が立っているのが見えた。彼女はその人物が、この墓のある園を管理している管理人だと思ったので、「あなたが私たちの主を運んだのなら、どこに運んだのか教えてください」と言った。
 するとその人物は「マリア」といって彼女に呼びかけた。この声を聞いた瞬間、マリアは忘れもしない主イエスの声であることに気がついた。そこにはまことに主イエスの姿があった。そこで彼女はイエスに取りすがらんばかりにして「先生!」と叫んだ。イエスはこのことを弟子たちに報告するようにとマリアに伝えた。
 マリアは何がなんだか十分に理解ができなかったが、このびっくりするような知らせを抱えて、まるで転がらんばかりにしてヨセフとペテロが帰っていった隠れ家に駆けつけた。そして「主にお目にかかりました。ほんとうです」と叫んだ。

2007.04.04

公務員をたたけば?

NHKニュースでは画面の下に字幕が出る。ときどきおもしろい字幕が出て楽しませてくれる。
今日(「こころぐ」がメンテナンス中だったので「昨夜」になってしまった)夜7時のニュースでは、「公務員たたきではなく、誇りをもって……」とかなんとか字幕が出た。そこまで読んで「?、うん」と思ってもう一度初めから読み直してみた。そして「公務員をたたけばホコリが出てくる!」ということかと納得。かんじんのニュースは、何のニュースだったか聞き損ってしまった。

安倍総理はときどきよくわからない表現を使う。
今日のニュースでも(同じく昨夜)、石川県知事が能登半島地震災害について、「激甚災害」指定を安倍総理にお願いしたことが報じられていた。これに対して、総理は「スピード感をもって対処します」とかなんとか答えていた。
この「スピード感をもって」という表現が気になる。「できるだけ速やかに対処します」と言えばいいのに、なにか言い逃れ的な表現のような気がする。
「スピード感」があるとか、ないとかいうのは、その人の感じ方なのであって、「私にはそうは感じられない」という反対意見が成り立つものではないか。
「スピード感」が感じられるように処理したいということなのか。でもそれを感じている人は、自分がそれをしているのでなくて、ただ何もしないで感じているだけなのではないか。

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