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2007.10.20

信仰とはこの地上の生の責任を果たす

新約聖書・ヘブル人への手紙11章1節《信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです》。

 このことばは聖書の中でも、クリスチャンたちにはよく知られていることばです。よくよくこれらのことばを読んでみると、実に驚くべき事が言われているように見えます。信仰というものは望んでいる事がらを保証するものだというのです。これだけを読むと、何か空論のように見えます。自分が望んでいること、すなわちまだ確実に現実のものとなっていないことを保証すると言う。
 それに続くことばも同じようです。目に見えないものを確信させるというのです。目に見えないことというのは、目の視力がなくて見えないけれども、手で触ってそのものを確認することができると、そういうようなことを言っているのではありません。それは望んでいるものと同じように、まだ実際には現実のものとなっていないもののことです。

 たとえば、私たちの社会は、将来への正確な予測をして行動をしていると言えます。その場合に予測の正確さというものが求められます。この予測は何によって導き出されるのでしょうか。それは過去のデータだと思われます。過去の正確、精密なデータの積み重ねによって、将来へ向けての正確な予測ができるものです。この場合に予測というところに人間の経験とか判断力とか、知的能力、個人的な欲望などが働き影響を与えます。油断をすれば予測は狂うでしょうし、慎重になれば予測はあまり有効にはならないでしょう。
 スポーツ選手の場合、特にイチローのような優れたバッターになると、自分が予測したところに微妙なタイミングでボールを落とすことができるようになります。打ったボールがピッチャーの前でワンバウンドし、ピッチャーの頭を高々と越えて、二塁手も遊撃手も中堅手も、一人も追いつけないような場所に巧妙にボールを落とすことができます。そのようなシーンを私たちは何回も見ているはずです。

 こういうものはその人の訓練の結果であると言えます。しかし《望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させる》というのはこれらとはかなり違うことを言っているようです。それは自分が確信したり、保証したりするものではないということです。自分以外の誰かが保証し確信させるのです。それは「信仰」ということばに、その秘密があると言えます。
 ここで「信仰」と言っていることばは、聖書が提示している神を信じるという意味です。神を信じるなら、言い換えれば、全知であり全能者であると聖書が紹介している神を信じるなら、これらの事が確実なものとなるというのです。「信仰」ということばは、日本語ではあまり日常的なことばではないようです。しかもその用法は、あまりよいニュアンスを持っていないようです。さらに個というものがあまり明確でなく、個人の主体性というものが社会的にあまり認められていない、あるいはあまり重要視されていない国民性では、聖書が言っている「信仰」というものをうまく説明することは難しいです。
 「信仰」ということばで訳される新約聖書の原文のギリシャ語では、「ピストス」ということばが使われています。このことばはむしろ「信頼する」という意味の方が大切なように思います。「ピストス」ということばは「ペイソー」という語が元になっています。この「ペイソー」は積極的な意味では、相手よりも力や影響力が「まさっている」という意味です。そして受動的な意味では、他の者に「勝たれる」、「勝利者になられる」という意味になります。ですから聖書が提示している神に、自分のすべてを明け渡すというのが、聖書が教えている「信仰」というものです。
 個というものがあまり明確でない日本人にとっては、相手の権威に服するという事も不明確になります。表面的には相手の権威に服すると見えていても、その相手の権威に服する個そのものが不明確なので、服従の仕方も不明確になるようです。また「自分のすべてを明け渡す」といっても、明け渡すべき自分が不明確なので、信仰そのものもはっきりしないものになってしまうようです。これをなんとか是正し、自分を成長させ、自分というもの、「個」をはっきりさせるためには、聖書のことばを信仰をもってよく読むことが大切になります。

 このようにして神の権威を認め、神がすべてを支配しておられるということを認め、了解するなら、神が、「望んでいる事がら」を保証し、「目に見えないもの」を確信させるのだということが、理解できるようになると思います。そこでこんどは、その「望んでいる事がら」とか「目に見えないもの」というのは何かと言うことになります。これはこの手紙の続く諸節で述べられていきます。それはまた別の文章で説明しますが、聖書全体の表現のことばで言えば、神を信じることによって与えられる「永遠のいのち」とか、天の御国への約束というものであると言えます。
 シェンキヴッチ著『クオ・ヴァディス』やラーゲルクヴィスト著『バラバ』などには、第一世紀のクリスチャンたちの迫害の出来事が詳しく描かれています。このクリスチャンたちは、ローマ市の大火の放火犯として処刑されます。しかし彼らクリスチャンたちは死ぬことを恐れるよりも、永遠のいのちの喜び、天の御国への期待や喜びの故に、むしろ喜んで死んでいったと描かれています。実際には死の恐怖というものはもちろんあったことでしょうが、それにもまして、天の御国へのあこがれは強烈だったと著者たちは描写しています。
 このヘブル人への手紙が述べている信仰によって得られる保証や確信、その結果として信仰者がもつことのできる「望んでいる事がら」とか「目に見えないもの」への確信というのは、この天の御国へのあこがれであると言えます。そして聖書は、この信仰があるなら、この地上の生において、人間としての責任を果たすことができるのだと教えています。

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