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2008.06.28

畑への配水工事

  工事と言うほどのものではないが、家内が畑の作物に水やりが大変なので、隣の家が設置しているような配水設備が欲しいと言い出した。この土地では田んぼや畑に水を引くために道路に側溝のような水路が設置してある。我が家の場所はその集落のいちばん上流に当たるので、二本の水路が通っているだけだが、下の方に行くとそこから何本にも枝分かれしているらしい。今は田んぼに水が必要な時期なので、かなり大量の水が流れている。

 この水路に、内径5センチほどの硬質ゴム製のパイプを突っ込んで水を引く。その水がどうして側溝の縁を乗越えて、さらに宅地の少し高くなっているところを乗越えるのか考えもつかなかったが、隣の家の人に教えてもらった。要するに、水を引く場合に一番高くなっているのと、同じくらいの高さのところまで、そのパイプを水中に突っ込んでいくのだ。そうすると水は高いところから低いところに流れるのだから、一見、高くなっているところを乗越えるように見えるけれども、実はパイプの取り入れ口が高いところまで到達しているので、水がパイプの中を流れてくるというわけである。
 水路の途中には何か所にも、水路の高さの半分くらいの板が挿入されていてダムのようになっている。そういうところからは別の水路が作られていて、ダムのようにたまった水を水路わきの田んぼや畑や宅地の庭に引き入れている。それと同じ原理を、太いパイプを水路の中に挿入することによって実現しているというわけ。水路に挿入するパイプの部分は数メートルから、5メートル近くにもなる。しかしそれだけの長さで間に合うということは、水路がかなりの傾斜を持っているということも示している。そこを流れる水は、かなりの早さであり、おとなであっても流されるくらいの水圧がある。

 ところがこの硬質ゴム製の太いパイプが、長さが足りないのでホームセンターのようなところで買おうと思って、いくつかの店を捜し歩いたが、どこにも売っていなかった。水道屋さんが使うパイプではないかという情報を得たので、市の地区センターの水道課で聞いてみた。すると以前はこのようなものを使っていたが、いまはもっと肉厚の太いものを使っているということだった。
 それでも農協が扱っているかもしれないという情報をもらって、農協に行ってみた。しかしそこの職員も、そのようなタイプのものは見たことがないという。そこで想像だが、我が家の近所の農家ではどこでも同じようなものを使っているようなので、かなり以前には農協などが扱っていたものなのだろうが、最近はそのようなものの必要はなくなったので、扱わなくなったのではないか。でもけっこう役に立ちそうな道具なので、扱ってもよさそうなのにとも思った。それにかわるものを探したが、同じようなものは見つけることが出来なかった。本格的に広い畑に水を送るのには、自然水流を使うのではなくて、小型のポンプを使う。 
 いちばんそれに近いものでは、塩ビパイプというものがあるが、これはフレキシブルではない。適当な曲げが必要なのだ。それに塩ビパイプは軽いので、ここいらの水路の水圧ではとばされてしまいそうだ。結局、取り入れ口には実家の方に古くからあった5センチのパイプを挿入して、これに何かをつなげようということになった。
 家内の困っている様子に同情した人が、内径4センチほどの同様のパイプを持ってきてくれた。長さは10メートルほどもあるが、これでは目的の畑まではとても届かない。これと実家の方に以前からあった太い方のパイプをつなぐのだが、太いパイプから細いパイプにつなぐときには、そのつなぎ目から水が漏れてしまってそこから先にはほとんど流れていかない。そこで細い方のパイプにビニールテープを巻き付けて太さを出して太い方のパイプに押し込んだ。すると水漏れを留めることができた。その先は結局は塩ビパイプを使うより他にはなさそうなので、2メートルの塩ビパイプと、そのジョイントを買ってきて配水施設を完了した。
 水の取り入れ口も、道路脇の水路本線からではなく、そこから自宅に引き込んである水路から取ることにした。この自宅内の水路は、水路本線から引き込んですぐに1メートルほどの段差があって滝のようにこしらえてある。その滝と水路本線との間の側溝に、太い方の硬質ゴムのパイプを挿入すると、ちょうど具合良く水を取り入れることが出来る。しかしどうしても途中で高低の差があって、上り坂を回避できないので、思ったようには水が流れないらしい。もう少し工夫が必要かも知れない。

2008.06.09

秋葉原の事件

これは自爆テロに限りなく近いですね。
しかし日本では社会正義といったものが全くと言っていいほど育っていません。
したがって何らかの正義の故に行動するということがない。

同じ日アルジェリアでは12人が犠牲となった。下の記事のように……。

日本の社会はテロ攻撃に対して、全くと言っていいほど完全無防備ですね。
しかし何らかの組織が起こすテロ攻撃は、防備するための手がかりがあるが、突発的なものを事前に防備する手段はない。
「ホコ天やめるか」というのは対症療法にしかすぎない。

 

アルジェリアで連続爆弾テロ、国軍兵士ら12人死亡(読売新聞) - Yahoo!ニュース

水着で記録が出る?

S社製の水着を着ると水泳選手が新記録を出すというのは、なにか不思議な気がするが。

からだの水抵抗を少なくするというのだが、競技の場合にこの水着を手に入れることができない人は記録も出せないし順位も上がらないとすれば、不公平ではないだろうか。どの水着を着て競技をするかを規制しなければ当然不公平だろうし、水泳競技と言うよりも、水着メーカーの競争ということにもなるのではないか。

スピード社販売ライセンスのゴールドウイン株が急上昇(読売新聞) - Yahoo!ニュース

2008.06.04

佳作入賞「Owmoi Mwno」

Imgp0520b この作品は一昨年に描いたものです。自分では気に入っていましたが、他の人に見せるようなものでもないのでしまってありました。
長野市の画材店が主催するアマチュア画家の公募展が毎年春と秋にあります。今年の春は出すものがなくてどうしようか迷っていましたが、この作品を額装して出品しました。
すると思いがけず「佳作」に入賞しました。春の公募展は4号以下という制限があります。この作品は自分でも初めてこのような抽象的なものを描いたものです。タイトルの「Owmoi Mwno」は要するに「重いもの」です。ほかに意味はありません。春と夏、この二年間出品してきて、少し変わったものでなければ入選はしても何かの賞はもらえないことがわかってきました。それでを出してみましたところ入賞したというところです。

2008.06.01

『カラオケ化する世界』

 『カラオケ化する世界』というものを読んだ。青土社から今年の1月に刊行されたもの。青土社もおもしろいものを出すねという感じで購入した。

 これを読んでびっくりした。私はカラオケには全く関心がない。実際に歌ったこともない。他の人たちが喜んで歌っているのを聞かされたことはある。そのときには「一つ歌え」と強要されたが、歌わなかった。そしてその座の一同に異端者を見る目で見られてしまった。しかしなんと今やカラオケは世界中で使われているのだそうだ。ちなみに"Google"でインターネット上を「カラオケ」で検索したところ、6350万件がヒットした。

 この現象は確かにバーチャルリアリティの世界を作り出している。カラオケに熱中する人たちは、そこに作り出される空想の世界の中で楽しんでいるのである。しかも今やその装置はあらゆる技術を用いて高性能化しているらしい。そうして歌うものたちに完全に空想化した世界を提供している。人々は一曲歌う間に、自分があたかも有名なコンサートホールの舞台に立っているような気分を満喫することができるようになっているらしい。しかしこの装置が世界中で人気を博しているという現象は、いったい何を意味しているのだろうか。

 人はたといそれが作り出された世界であるとしても、一瞬であっても自分が全くの自分の世界に没入できるところに、麻薬にもにた誘惑を感じているのではないか。そしてその世界に自分を完全にささげきってしまっているのではないか。いやその装置に完全に自分を売り渡してしまっているのではないか。そうなのだと思う。そうでなければ、これほど世界的な人気を得ることはなかったのではないか。

 それはおそらく人間という生き物は、このような世界の中でしか、充実感を得られないようになっているからなのではないか。しかしこの「充実感」というものはいったい何だろうか。この擬真理性に激しく抵抗したのはキルケゴールだったのではないか。ますます複雑化していくこの現実世界の中で、人間は息の根を止められるようになっている。たった一人で、他の何ものにも支配されることなく、自分の世界に没入できるということは、確かに人間という生き物にとっては、必要な世界なのかも知れない。だが、ほんとうにそうなのか。なにか作り上げられた世界の中で、その世界によって人は動かされているのではないか。ヒット曲も、音楽の音作りも、すべてがカラオケで歌われるようにという工夫があるという。それはまさにそのような装置のすべてによって、人の心が奪われてしまっていることを意味している。

 それにしてもここまで世界中の人々の心を奪ってしまうというこの装置は、世界の動勢には何かの益を与えるものなのだろうか。カラオケが世界を動かすとは、今のところは思えないが、これだけの勢力になってくると、何らかの影響を与えることになるのだろうか。「マクドナルドの店舗がある国では戦争がない」という表現をどこかで読んだことがあるが、これもマクドナルドが平和を作り出しているのではなくて、ある種の支配が現実化しているところにマクドナルドが店舗を出すということなのだ。そしてまたこの「ある種の支配」というものもまた、「擬真理」なのだ。アメリカのキリスト教会が、西部開拓の時代にはその開拓者たちの後を追って宣教の活動を広めていったのと似ている。いまや「カラオケのある国では戦争がない」ということになるのだろうか。韓国は北朝鮮への援助物資の輸送の中に、カラオケ装置を加えていたということなのだから。笑ってはいられない。

 なぜ「偽真理」でなくて「擬真理」なのか。それは真理の偽物ではなくて、あたかもこれが真理であるかのように装っているからなのだ。この装いの華やかさに人はだまされてしまうのである。「サタンさえ光の御使いに変装する」(新約聖書・Ⅱコリント11:14)という。

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