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2008.09.19

「欧米の罪悪感の代償をパレスチナ人が払っている」

同じことは繰り返し言われてきましたが、問題はいっこうに改善しません。
人間はなんとかして自分の罪責感をあがなってほしいと思っているものです。
人間のこの宿命が、解放されない限り、人間世界の殺戮は止むことはないでしょう。

 

戦争・紛争ニュース 国際ニュース : AFPBB News

2008.09.16

日本のカザリ

 この六月に、NHKの「新日本美術館」で「日本のかざり」というものが紹介されていた。縄文土器にはじまって、戦国武将の不思議な兜など、日本人がカザリにいかに情熱を注いだかが紹介されていた。
 このカザリ物は祭礼の品などに盛大に使われている。それはあたかも日常の中に非日常を持ち込むような感じのものであった。それは現代においても、各地の祭礼の品々に現れている。そしてそこに情熱を注ぐことによって、ある種の宗教的な熱狂を表現しており、それゆえにそこには非日常が現出するというものであった。
 まつりのみこしに始って、各地で引き回される山車などなどに、細かい装飾が施されている。これらはすべてが人の目を日常性から引き離すものであって、そこには神々が出現する。花火なども同様の仕掛けなのではないか。
 それらのカザリ物は最近はますます細かくなり、華やかなものとなり、色彩も豊かなものとなっていく。それらのものが豊かであればあるほど、神々の出現にもまた華やかさが加わるのである。まさに神々が大挙して出現するという現象が生じる。

 もうずいぶん前のことであるが、同じくNHKの番組で「ケルト文化」についての講義が13回ほどにわたって行われていたのを見た。ケルト文化というものもまた、カザリの文化のようだったことを記憶している。その講義はどこかの大学の女性の教授の方が担当していたのだが、回を重ねるごとに、その教授の着てくる衣装が、だんだんと細かい模様で派手になっていく。その衣装そのものが、まさにケルトの美を表わしているものだったと思う。

 私の妻の実家でこの八月に新盆が営まれた。盆の行事というものもまた、一種のカザリ物であると言える。僧侶がやってきて経を唱えるのであるが、そのパフォーマンスに仰々しさがあればあるほど、ありがたい経であるとされる。もっとも最近はその長さが問題であり、なるべく短い方が好まれ、そのパフォーマンスの後に用意されている酒肴のほうに、参加者一同の心は奪われている。もっともそれが短ければ短いで、これまた噂の種とされるのである。
 盆のしきたりはかなり面倒なものである。迎え火から始って送り火に至るまで、そしてその場に招待する人の選出、そこに出される料理のひとつひとつまで、すべてがまさにカザリ物である。そしてその形式は厳密に守られなければならず、少しでも欠けがあれば、この地域のように小さな集落では、最悪、仲間はずれに近い取り扱いを受けるらしい。それ故にこそ、そのカザリ物のしきたりは守られなければならず、そのためには、余計な費用だというつぶやきを伴って、非日常の支出がなされる。

 このNHKの番組を見ながら、笙野頼子の『二百回忌』という作品を思い出していた。この『二百回忌』という作品は実におもしろかった。笙野頼子のそのほかの作品は、なにかひたすら奇抜な文章が並んでいるだけで、あまりおもしろくはなかった。しかしこの『二百回忌』はおもしろかった。それは「日本のカザリ物」という番組を見ながらこの作品を思い出していたくらいだから、この作品そのものもまたカザリ物が描かれていたのだと思う。
 二百回忌にはすべてのことがめでたく行われなければならないとされている。そして時間にも空間にも非日常が出現する。そういうあり得ない出来事が、日常的にあり得るように描かれている。そこにこの作品のおもしろさがあった。そういえば笙野頼子の作品が、あまりおもしろくなかったのは、その物語に空間的にも時間的にも広がりが感じられなかったからではないか。しかしこの作品では、非日常的にデフォルメされた時間の流れと空間の広がりがあったから、かえっておもしろかったのではないか。

 しかしこのように考えてくると、日常と非日常の区別というものは何だろう。われわれの日常の出来事は、もしかするとすべてが非日常なのではないかとさえ思える。すべてが非日常だとすれば、日常というものは何だろうか。
 私は音楽を聴いたり、絵を描いたり見たりすることが好きである。こういった音楽の華やかさにも、絵画の華やかさにも、それは非日常であるからこそ、美事だと感じるのではないか。日常的なものが描かれてはいるものの、そこに表現されているものは、まさにカザリ物であり、非日常なのである。だからこそおもしろい。それゆえにこの非日常こそが、飽くなき追求の種となるのではないか。

 それ故にこそ人生はまた楽しいと思うのである。

2008.09.15

瀕死の状態にある患者より比較的元気な患者を救う方が良い

この世はきびしいですね。

この半年で株価は10分の1以下になってしまいました。

この世界的不況はどうなるのでしょうね。

 

「流血の日曜日」と報道=金融危機で米メディア - 速報 ニュース:@nifty

2008.09.11

ボランティア活動の余得

 昨日は図書館のボランティア活動に行ってきた。今回は14人出席と大勢だった。

 昨日は、十月に図書館主催で行なわれる「本のリサイクル市」の準備作業をした。図書館の方で除籍する本を市民に無料で提供するというもの。除籍する本を点検し、除籍の手続き――バーコードをマジックペンで斜線を引き読み取れなくすることと、除籍のゴム印を押して日付を入れるという作業。
 いらなくなったものを廃棄するのだからさぞかし古いものが出されるのだろうと思ったが、さにあらず。まだ新しいと思われるもの、ほとんど読まれていないような新品同様のものも交じっている。どうしてこんなものがリサイクルに出されるのだろうと一同不思議がったものである。
 ボランティアの人は、自分が欲しいものがあればこの場で持って帰ってもいいというので、4冊ほどもらってきた。ほとんどの本はサスペンスものとか、子どもの本とか、そういったたぐいのものだ。作業は四人一組となって流れ作業でするので、自分の前を本がただ通過していくような感じだったが、その中でも目にとまるものがあった。

 第一に選んだのは山田登世子の『ブランドの世紀』である。これは出版社の「マガジンハウス」というのが最初に目にとまった。「ほう。マガジンハウスの本ねぇ」という感じで著者名を見て即座に「これはもらって帰る」と言った。山田登世子の『メディア都市パリ』は、とりあえずはおもしろく読んだものである。そのときこの本の存在を知ったのだが、特に探して買おうとは思っていなかった。こうして思いもかけず手に入ったのは幸運であった。それにしても目の前を流れていくような本たちの中から、なんとも素早く目にとまったものと、自分でも感心している。

 第二に選んだのは、小鷹信光という人の『ペイパーバックの本棚から』というもの。これは本そのものも著者も知らないものだった。ただそのタイトルから「これはおもしろそう」と思ったのだ。上記のようにほとんどの本はサスペンスものとか大衆小説ものばかりであるので、このような特殊なタイトルのものは目につくのかも知れない。しかし中身をぱらぱらとめくってみると、社会学の系統の内容だとわかるものだった。それで即決定した。帰ってきてよく見ると、まずは翻訳ものだと思っていたが、実は日本人の著者であることにびっくりした。なんとアメリカのペイパーバックについての詳細な記述であるらしい。内容はともかくも、ペイパーバックという書物に魅せられた、気の毒な(?)人の物語が読めるのではなかろうかと思う。

 第三のものは中村真一郎の『本を読む』というもの。中村氏の作品は読んだことがない。内容としても特に何か魅力があるというものでもなさそう。しかし「読書」というまことに楽しい作業について書かれてあるのに違いないので、読書の専門家とも思える著者がどのようにして本を読んでいるのかということに興味を持って、もらってきた。毎日新聞に月一で連載されたものを一冊にまとめたもの。毎日新聞に連載されたものなので、たぶん新聞紙上で読んだことがあるに違いない。しかし記憶にとどまっていないようである。

 第四のものは、家に帰ってからよく見て全く驚きあきれたもの。ハンス・リヒターという人が書いた『ダダ――芸術と反芸術』(美術出版社)というもの。「ダダ」という芸術思想があることは知っていた。そしてそれが一風変わった内容の思想であることも知っていた。したがって自分にはちょっとついていけないなぁという感じで、いわゆるダダイズムとか、それに関連したものには、あまり近寄らなかった。しかし関心があったので、この本のタイトルが目に飛び込んできたときには、ちょっと興奮した。しかもそれは分厚いものであった。軟表紙(新装版となっているので、もともとは硬表紙で出ていたものか)で400ページもあるもの。たくさんの図版に加えて、白黒であるがグラビアページもあり、巻末には10ページにもわたる索引と、これも9ページにわたる参考文献目録がついている。それだけでも感動ものである。目次を見るとダダイズムの歴史的俯瞰という内容らしいことがわかる。これはちょっと読むのに覚悟がいるような内容である。

 というわけで、これらは実に貴重な収穫であった。

2008.09.10

自民党総裁選

 福田氏が総理の座を棄任したので自民党は大騒ぎで、その結果、総裁選になった。今回は五人が立候補した。
 昨年、福田氏が選ばれたときは、大半の派閥が一致して福田氏を推した。ところが今回は一変して派閥の争いとなった。いったいこれは何を意味しているのだろうか。
 福田氏の時は大半の派閥が福田氏を推した。そして福田氏が辞任するととたんに派閥が入り乱れての候補者推薦となった。ということは、福田氏を一致して推したけれども、途中からは派閥の足並みが乱れて、自民党内でも福田批判が多くなったということなのではないか。福田氏もこれには参ってしまって、遂に政権を投げ出すということになったのではないか。
 今や自民派閥連合党ということになった。

2008.09.02

福田総理辞職

 昨夜、9時半少し前、家内が「総理、辞職だってよ!」と叫んで私の部屋にやってきた。私はおもわず「あ、そう」と言ってしまった。

 先日の内閣改造で、麻生太郎氏に自民党幹事長を任命した時から話はついていたのではないか。麻生氏が引き受けるにしても、そうでないにしても、衆議員総辞職と総選挙ということになるのではないか。今回も解散の時には「バンザイ」を叫ぶのだろうか。
 自民党が選挙で勝利すれば、民主党も少しは自民党に協力する傾向になるかもしれない。理屈上は自民党を選んだのが「民意」なのだということになるから。
 自民党が敗北すれば、民主党が政権を取ることになるのであろうが、それでも日本の政治の混迷は続くのではないか。民主党が政権を取ったからといって、政治の腐敗や、そのほかのあらゆるレベルでの腐敗はなくならないであろう。経済も行き詰まるであろうし、民衆の生活も立ち行かなくなるであろう。民主党の標榜していることは、その場限りの政策でしかないような気がするが……。

 日本の政治とアメリカの政治を同じレベルで考えることはナンセンスではあるが、アメリカの大統領候補者の演説を聞いていると、大きなビジョンが語られ、それについて候補者同士で公開の議論を戦わせるということが繰り返される。日本の政権指導者たちには、日本の国を将来にわたってどうするのかという、人を動かすビジョンが全然ないのではないか。たまにビジョンを語っても、あとでまわりから公約違反だと突き上げられるようでは、将来に向かって何も語れないということになる。

 いずれにしても困難な状況が続くであろう。それでも国民は生きなければならないんですよね。

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