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2008.12.30

キルケゴールの『キリスト教の修練』――長文一挙掲載

 キルケゴールの『キリスト教の修練』という本を読み終わった。読み終わった最初の印象は「すごい本だ!」というところ。いわばキルケゴールの最高傑作だといっても良いのだろう。イエスキリストについてこれほどみごとに論じた本は、おそらく新約聖書の使徒パウロの著作以外にはないであろう。
 キルケゴールはその生涯に、実に多くの著作を書いているが、この『キリスト教の修練』を頂点にして彼の全体の著作構造が組み立てられていると言っても良い。このように自分の生涯を組み立て、それをたくさんの著書として表わしたという人は、まさに天才としか言いようがないのではないか。どうしてこのようなことが可能だったのかと、私はいつも不思議に思うのである。

 私はこの本を『イエスの招き』というタイトルで出ていた角川文庫のものを読んだのが最初である。この本の第一部は、新約聖書のマタイの福音書にある「すべて労する者、重荷を負う者、われに来れ。われ汝らを休ません」ということばによる、キリストの招きについての説教である。私は精神的にも行き詰まっていたときにこれを読んだ。そしてまさにこの「イエスの招き」に応じて、キリストのもとへと行った。これを翻訳した井上良雄氏は、これを読んだ人がこのキリストの招きに応じてくれることを願いつつ、このタイトルをつけたのだと思う。
 この本は『死に至る病』の続編として書かれたものと思う。『死に至る病』は人間の罪がテーマである。罪の中にとどまるなら、人は死に至るとこの本は説く。そして『キリスト教の修練』にいたって、罪から解放されるためにはイエスキリストの招きに応じることだと説く。
 2004年に新教出版社から出されたこの本は、第三部までを収めている。従ってかなりの大部の書籍となっている。354ページある。この本の訳者の「あとがき追記」によれば、角川書店から『イエスの招き』というタイトルで出版されたのは、初めは第一部と第二部までで、1955年に第三部までを収録したものが出されたということである。文庫本でもかなりの大部のものだったはず。
 私が読んだものは第二部までのものと思っていた。しかし今回第三部を読んで、この文章の感覚は確かに以前に読んだことがあると感じながら読んでいた。もう45年も前のことである。それほどにこの本が私に与えた印象は強烈であった。

 1962年11月に白水社から「キルケゴール著作集」というものが発刊され始めた。第一回の配本は『死に至る病』であった。そして第二回に配本された『おそれとおののき』という本で、私は大きな感動を得た。それはそれまでに読んできた多くの哲学書とは全く違う印象であった。なによりも私はその冒頭のところを読んだときに、ここには確かに何かの解決があると直感した。そして白水社の著作集が半分ほど刊行された、1964年になって角川文庫の『イエスの招き』に出会い、そしてイエスご自身に出会ったのである。
 しかしなんと、この角川文庫を私はそのほかの文庫本と一緒に古本屋に売ってしまったのである。この『キリスト教の修練』は白水社の著作集で買って持っていると錯覚した結果である。
 1965年にキリスト者となった私は、それから数年で牧師になってしまった。説教を聞く立場から自分が説教を語る立場になってから、私はキルケゴールの文章を読むことを意識的に避けてきた。一人のキリスト者であることを厳密に追求していくことにおいては、キルケゴールの著作集は大きな励ましを与えるものであった。しかし説教を語る立場に代わってからは、キルケゴールの複雑な文体と、その思想の複雑さが、自分の説教に影響を与えることを恐れたからである。そして聖書そのものを詳しく読み解くことにすべてのエネルギーを注いできた。
 こうして今、牧師という立場から離れたときに、なんとかしてもう一度この重要な『キリスト教の修練』を読みたいと思ってきた。そうしてネット上でこの書籍を発見して購入した。前にこのブログでも書いたように、カフカやメルビルのものと同じように読み応えのある書物を読みたいと思っていたが、キルケゴールの著作は、実に読み応えのあるものだと言えよう。

 『キリスト教の修練』第二部は「我れに躓かぬ者は幸福なり」に基づく説教。そして第三部は「彼は高きところより、すべての者を御許に引きよせ給う」による説教になっている。
 そしてこの第三部では、キリスト者であることはどういうことかを論じている。それはきわめて厳格なもので、ここで論じられているあり方が、確かにキリスト者としてのあるべき姿であるが、それはまさに狭き門からなんとかして入り込むというような感じである。
 私は長年、キリスト教会の牧師としての職にあり、聖書の説きあかし、すなわち説教をすることを生業としてきた。ここでキルケゴールが論じている厳密な意味でのキリスト者のあり方というものは、確かにその通りだと納得する。しかし私たちは現実の世界の中に生きているのであり、その罪の世界の中では、妥協の生き方がやむを得ずに存在する。
 毎週の礼拝で説教を語りながら、自分が語っていることがまことに真実ではないことを知りながら語らざるを得ないということであった。そのことに気づくときには、必ず私のうちには熱いものがこみ上げてきて、涙なしに語ることが出来なかったという経験を何度もさせられてきた。キルケゴールがこの第三部で主張していることはまさにそのようなものであり、そしてまた彼自身がその厳格さをよく知りながら、論理を展開しているものであると言える。

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