2012.02.27

小岸昭著『マラーノの系譜』

この本を読んだ。みすず書房、四六版、110ページ。

「マラーノ」というのは、14-15世紀くらいにスペインやポルトガルといった地域で、強制的にキリスト教に改宗させられたユダヤ人のことを意味する。「マラーノ」というのはスペイン語で「豚」の意味だそうだ。彼らはキリスト教に改宗させられても、伝統的なユダヤ教の掟を守り続けた。そのために彼らはさらなる弾圧を恐れて、彼らだけの街を作って住んだ。弾圧する側は改宗させてしまえばめでたしめでたしとなるのかと思いきや、「豚」といって徹底して軽蔑し差別していた。

この時代には、狂信的になって国家権力をもほしいままにしたキリスト教会によって、ユダヤ教信徒は激しく弾圧された。この本はその歴史を語っている。改宗ユダヤ教徒の子孫であるスピノーザ、ハイネ、カフカそのほかの著作を分析しながら、この特殊な歴史が語られていく。非常に興味ある内容だった。このような弾圧を受けたユダヤ人たちの歴史があることは、私も知ってはいた。ユダヤ人は第一世紀の後半になって国を失って、ヨーロッパの各地に散らされていった。その一部はスペインにまで至り、さらには南北アメリカ大陸にまで及んだ。このように厳しい時代の中で、ユダヤ教を守り続けるエネルギーはすごいという感じ。このような歴史の周辺領域の知識に乏しい私には、多くの感動を感じながらも十分には理解できなという焦りがあった。

改宗ユダヤ人の子孫の一人であるカフカについて書かれた部分では、その『審判』という作品の意味を初めて知ることができたことは収穫だった。『審判』という作品は突然に何か理由のわからない容疑によって逮捕されたKという人物について語られていく。何回もの裁判がくりかえされ、弁護士との繰り返しの話し合いでも、何の容疑かもわからずただ右往左往させられるという物語だと、説明されていた。この時代のユダヤ人たちは、このような歴史の中で翻弄されていったのだということが、よくわかる。

2010.09.01

松井冬子&福井利佐

昨日、NHKオンデマンドで二人の若手の絵画作家について見た。両方とも「トップランナー」という番組である。この「トップランナー」という番組は以前より時間が短くなったような気がする。そしてインタビューする男女二人のスタッフも新しくなった。

第一に見たのは日本画の作家である松井冬子という人。次のように紹介されていた。

〈東京藝術大学で日本画を専攻。伝統的な日本画の手法を用いながら、松井冬子の作品は従来の日本画の枠を大きくはみだす異色なものだ。モチーフにするのは幽霊、内臓など。時に「衝撃的」「暴力的」とも映る、その作品を通じ、松井は一貫して人間の「痛み」「苦しみ」を描いてきた。松井のアトリエをMC・箭内道彦が訪問。独特の技法を目の当たりにする。スタジオトークでは、松井が描き出す“美しき世界”の秘密に迫る〉。

描かれているのは一見不気味なものである。しかしそこには実に的確な表現技術があって、そのあり得ないような不気味さを、見事に現実のものとして描き出している。そこにこの人の特徴、見るべきものがあるのではないかと思った。東京芸術大学に在学中にはひたすら大量のデッサンを描いたと紹介されていた。それによって身につけた描写力の見事さ。幻想的な作品ではあるが描くときは必ず実物を見てデッサンすると言っていたが、その実力が幻想的ではあるが、対象物が現実にそこに存在しているという事実を見事に描き出している。司会の田中麗奈さんも紹介していたが、画面全体に描かれている藤棚から何本も下がっている藤の花が、下の方に行くに従ってたくさんの蜂の姿に変わっていくなどと言う表現は、ただただあきれるばかりの見事さであった。

日本画でこのような不気味なものを描くというのは、古くからの伝統があったのではないかと思う。何人かの作家の作品を見たことがある。雑誌などでも紹介されていたと思う。だからその不気味なテーマには驚かなかったが、その雰囲気をリアル化するテクニックにはびっくりさせられた。しかし本人にしてみれば、そこにおもしろさがあり、関心があり、表現追求の責任のような、あるいは自分を動かしている目に見えない力のようなものがあるのではないか。そういうものを感じながら描くのでなければ、このようには完成していかないのではないか。確かまだ三十代半ばだと思ったが、これらのテクニックを土台としてさらに見応えのある作品を作り出していくのではないかと思う。

もう一人は切り絵作家の福井利佐さん。オンデマンドの番組紹介覧には次のようにある。

〈カッター1本で切り取られる繊細かつ力強い、立体的な世界が、アート関係者や若い世代の関心を呼んだ、切り絵作家・福井利佐さんの登場です。福井さんが創作する切り絵は、日本伝統の技法を受け継ぎながらも、作品には今と言う時代が表現されています。歌手・中島美嘉がCDジャケットやツアーパンフに採用して注目されました。新しい世界を作る若きクリエイター・福井利佐さんが、「切り絵」の魅力や作品に込めた思いを語ります〉。

始めは「切り絵でぇ?」という感じだったが、そのタイトルバックに映し出された作品を見てびっくりしてしまった。自己紹介によれば、子どものときに感動した絵本の印象が残っていて、中学生のときに必須の選択科目で「切り絵クラブ」を選んだのだそうだ。その中学生のときの作品「とうもろこし」が紹介されていたが、トウモロコシの毛を描きたかったと言うだけあって、その毛の描写は見事だった。もちろん毛だけでなくて、全体の画面構成なども見事だった。

そのご切り絵とは離れた生き方をしてきたらしいが、多摩美大に入って、卒業制作に何を制作するかに迷ったときに切り絵を選んだという。それは家族の顔を切り絵で描いたものを16枚くらい並べたもの。この作品は卒業制作としては高く評価されたらしい。そしてある公募展に出品して特別賞を受け、注目されたというもの。この家族それぞれの、いわば肖像画であるが、切り絵というものはそこに描き出される黒の線がいのちである。普通の絵画は濃淡や色彩の変化で立体感を表現するが、それを切り絵でどう表現するかというのが、いわば挑戦である。彼女の作品はいままで誰も考えもしなかったような細かい線を切り出してそこに見事な立体感を描き出している。この番組の中で終始背景に使われていた作品の一つに、ハイエナの頭部を描いた作品があったが、この作品も一本一本の毛が描き出されているとも言って良いほどに見事であり、そこに立体感が表現されている。

この作家は番組の紹介にもあったように、歌手・中島美嘉さんのアートディレクターに見出されて、彼女のCDジャケットやパンフレットなどにも使われ、さらには婦人服の染色デザインなどにも使われているそうだ。最近はそのような異なったジャンルの作品の、いわばコラボレーションが盛んに行われているが、彼女の切り絵作品にはそのような可能性が秘められているのだろう。

2008.12.05

河野通勢展

 昨日、長野市の長野県信濃美術館まで行って「河野通勢展」を見てきた。この人は「こうのみちせい」とよむのであって、私はどういうわけか「こうのつうせい」と最初に、その強烈な印象とともにインプットされてしまったので、つい「こうのつうせい」と言ってしまう。
 河野通勢は1895年から1950年まで55年の生涯を得た。長野県の出身で父親は写真家であり絵画も描いた人。幼い頃から地元の風景を描きはじめ、地元の裾花川周辺をコンテで描いた大量の作品を残していると、何かで読んだことがある。今回もその風景作品をたくさん見ることができた。
 その描写力はなみはずれたものであり、通俗的な表現ではあるが、その「執拗な描写」技法は、まことにただものではない。うねるように描かれた枝々に、風に吹かれて揺れ動くかのように描かれたたくさんの木の葉。それは単に見えるものを描いたというよりも、彼が小さいときから目で見て、さらには肌で感じて、自分の中に定着していった風景が、彼の想像力という網目を通って描き出されたものであると言える。
 油彩画では、その執拗なまでの絵の具の塗り重ねが、見事な存在感を生み出している。独特の描画を極めた自画像が数点展示されていたが、その存在感のすごさは実に見事。繰り返し繰り返し絵の具を重ねた筆の跡が、100年近く経たいまでも生々しい。油絵の魅力はこの積み重ねにあるのだと、再確認したことである。
 日記などの資料も含めて、約350点の展示はすばらしいものだった。

2008.09.16

日本のカザリ

 この六月に、NHKの「新日本美術館」で「日本のかざり」というものが紹介されていた。縄文土器にはじまって、戦国武将の不思議な兜など、日本人がカザリにいかに情熱を注いだかが紹介されていた。
 このカザリ物は祭礼の品などに盛大に使われている。それはあたかも日常の中に非日常を持ち込むような感じのものであった。それは現代においても、各地の祭礼の品々に現れている。そしてそこに情熱を注ぐことによって、ある種の宗教的な熱狂を表現しており、それゆえにそこには非日常が現出するというものであった。
 まつりのみこしに始って、各地で引き回される山車などなどに、細かい装飾が施されている。これらはすべてが人の目を日常性から引き離すものであって、そこには神々が出現する。花火なども同様の仕掛けなのではないか。
 それらのカザリ物は最近はますます細かくなり、華やかなものとなり、色彩も豊かなものとなっていく。それらのものが豊かであればあるほど、神々の出現にもまた華やかさが加わるのである。まさに神々が大挙して出現するという現象が生じる。

 もうずいぶん前のことであるが、同じくNHKの番組で「ケルト文化」についての講義が13回ほどにわたって行われていたのを見た。ケルト文化というものもまた、カザリの文化のようだったことを記憶している。その講義はどこかの大学の女性の教授の方が担当していたのだが、回を重ねるごとに、その教授の着てくる衣装が、だんだんと細かい模様で派手になっていく。その衣装そのものが、まさにケルトの美を表わしているものだったと思う。

 私の妻の実家でこの八月に新盆が営まれた。盆の行事というものもまた、一種のカザリ物であると言える。僧侶がやってきて経を唱えるのであるが、そのパフォーマンスに仰々しさがあればあるほど、ありがたい経であるとされる。もっとも最近はその長さが問題であり、なるべく短い方が好まれ、そのパフォーマンスの後に用意されている酒肴のほうに、参加者一同の心は奪われている。もっともそれが短ければ短いで、これまた噂の種とされるのである。
 盆のしきたりはかなり面倒なものである。迎え火から始って送り火に至るまで、そしてその場に招待する人の選出、そこに出される料理のひとつひとつまで、すべてがまさにカザリ物である。そしてその形式は厳密に守られなければならず、少しでも欠けがあれば、この地域のように小さな集落では、最悪、仲間はずれに近い取り扱いを受けるらしい。それ故にこそ、そのカザリ物のしきたりは守られなければならず、そのためには、余計な費用だというつぶやきを伴って、非日常の支出がなされる。

 このNHKの番組を見ながら、笙野頼子の『二百回忌』という作品を思い出していた。この『二百回忌』という作品は実におもしろかった。笙野頼子のそのほかの作品は、なにかひたすら奇抜な文章が並んでいるだけで、あまりおもしろくはなかった。しかしこの『二百回忌』はおもしろかった。それは「日本のカザリ物」という番組を見ながらこの作品を思い出していたくらいだから、この作品そのものもまたカザリ物が描かれていたのだと思う。
 二百回忌にはすべてのことがめでたく行われなければならないとされている。そして時間にも空間にも非日常が出現する。そういうあり得ない出来事が、日常的にあり得るように描かれている。そこにこの作品のおもしろさがあった。そういえば笙野頼子の作品が、あまりおもしろくなかったのは、その物語に空間的にも時間的にも広がりが感じられなかったからではないか。しかしこの作品では、非日常的にデフォルメされた時間の流れと空間の広がりがあったから、かえっておもしろかったのではないか。

 しかしこのように考えてくると、日常と非日常の区別というものは何だろう。われわれの日常の出来事は、もしかするとすべてが非日常なのではないかとさえ思える。すべてが非日常だとすれば、日常というものは何だろうか。
 私は音楽を聴いたり、絵を描いたり見たりすることが好きである。こういった音楽の華やかさにも、絵画の華やかさにも、それは非日常であるからこそ、美事だと感じるのではないか。日常的なものが描かれてはいるものの、そこに表現されているものは、まさにカザリ物であり、非日常なのである。だからこそおもしろい。それゆえにこの非日常こそが、飽くなき追求の種となるのではないか。

 それ故にこそ人生はまた楽しいと思うのである。

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