2011.09.06

『チボの狂宴』

『チボの狂宴』という本を読んだ。バルガス=リョサという作家の長編小説。作品社というところから発行されたもの。四六版で518ページもあった。図書館で借りたので、貸し出し期限の三週間で読み終わるかどうか不安だったが、なんと二週間で読了してしまった。すごく面白かった。

バルガス=リョサという作家はペルーの作家。この作品で2010年のノーベル文学賞に決定したらしい。

「チボ」というのはスペイン語で「山羊」という意味らしい。そしてこの作品はドミニカ共和国の大統領よりさらに上に位置した「総督」のトルヒーリョという実在の独裁者の暗殺という歴史的事件を、物語の土台として描いている。「チボ」というのはこの独裁者を指しているらしいし、「狂宴」と訳されたことばにも、さまざまな仕掛けがあると、訳者解説で述べられていた。

この作家の文章はすごい迫力がある。読んでいてそのパワーには圧倒されるようだ。このトルヒーリョのような独裁者は、人間の歴史上に数え切れないほど登場した。今でもカダフィなどという人物もいた。そのほかにもさまざまな人物が実在するが、人間社会というものは、このような独裁者を常に求めているのではないか。人間というものはそういうあらゆる権力を渇望するものであり、そういう罪人の集合体が人間社会なのだ。すなわち実力のある権力者を熱狂的に迎えるというのが、罪人人間の社会らしい。あらゆるスポーツに熱狂するのも同じ構造ではないか。

この『チボの狂宴』という作品は、独裁者暗殺という緊迫した物語と同時に、その独裁政治の支配に巻き込まれた一人の女性の破滅と再生を描いている。この女性に関するところは、この長編小説の最初と最後に出てくるだけ。しかし作家はこのことを重要なこととして描きたかったのだろう。感動的だった。

この少女を独裁者の魔手から救い出すために取った手段を描くあたりの文章はものすごい迫力だと思った。まさに一瞬の出来事であった。ドミニカ共和国にあった修道院は、この少女を独裁者の手から保護すると直ちに米国にある同じ派の修道院に逃れさせる。巨大な権力の物語が語られた背景からは、この一瞬の対抗処置を描くあたりの文章は、なんとそれはわずか一ページにしかすぎなかったが、すごい迫力であった。

全体として「人間存在への愛」が語られていると思う。

2007.11.13

平和をつくる者は幸いです

このことばは新約聖書のマタイの福音書の中に出てくる。イエスの山上の説教としてよく知られている部分である。これに続いて《その人は神の子どもと呼ばれるからです》とある。

第一世紀に書かれた文書の新約聖書には「平和」ということばが46回出てくる。新約聖書の時代である第一世紀の前半は「ローマの平和」と言われるように、ローマ帝国が、当時の地中海世界の政治の実権を握っていた。そのために国際政治的には大きな戦争もなく、とりあえずは平和であった。
しかし人間というものは究極的な平和を求めるものである。それがなければ、見かけ上はどんなに平和であっても、不安定なものを感じ、恐れを感じるものである。
イエスの誕生の時に、天使が歌ったとされている賛歌の中に、次のことばが記録されている。《いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように》(ルカの福音書2章14節)。
聖書はこの究極的な平和が、イエス・キリストによって提示されていると語る。世界に平和があるようにと祈るものである。

2007.10.20

信仰とはこの地上の生の責任を果たす

新約聖書・ヘブル人への手紙11章1節《信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです》。

 このことばは聖書の中でも、クリスチャンたちにはよく知られていることばです。よくよくこれらのことばを読んでみると、実に驚くべき事が言われているように見えます。信仰というものは望んでいる事がらを保証するものだというのです。これだけを読むと、何か空論のように見えます。自分が望んでいること、すなわちまだ確実に現実のものとなっていないことを保証すると言う。
 それに続くことばも同じようです。目に見えないものを確信させるというのです。目に見えないことというのは、目の視力がなくて見えないけれども、手で触ってそのものを確認することができると、そういうようなことを言っているのではありません。それは望んでいるものと同じように、まだ実際には現実のものとなっていないもののことです。

 たとえば、私たちの社会は、将来への正確な予測をして行動をしていると言えます。その場合に予測の正確さというものが求められます。この予測は何によって導き出されるのでしょうか。それは過去のデータだと思われます。過去の正確、精密なデータの積み重ねによって、将来へ向けての正確な予測ができるものです。この場合に予測というところに人間の経験とか判断力とか、知的能力、個人的な欲望などが働き影響を与えます。油断をすれば予測は狂うでしょうし、慎重になれば予測はあまり有効にはならないでしょう。
 スポーツ選手の場合、特にイチローのような優れたバッターになると、自分が予測したところに微妙なタイミングでボールを落とすことができるようになります。打ったボールがピッチャーの前でワンバウンドし、ピッチャーの頭を高々と越えて、二塁手も遊撃手も中堅手も、一人も追いつけないような場所に巧妙にボールを落とすことができます。そのようなシーンを私たちは何回も見ているはずです。

 こういうものはその人の訓練の結果であると言えます。しかし《望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させる》というのはこれらとはかなり違うことを言っているようです。それは自分が確信したり、保証したりするものではないということです。自分以外の誰かが保証し確信させるのです。それは「信仰」ということばに、その秘密があると言えます。
 ここで「信仰」と言っていることばは、聖書が提示している神を信じるという意味です。神を信じるなら、言い換えれば、全知であり全能者であると聖書が紹介している神を信じるなら、これらの事が確実なものとなるというのです。「信仰」ということばは、日本語ではあまり日常的なことばではないようです。しかもその用法は、あまりよいニュアンスを持っていないようです。さらに個というものがあまり明確でなく、個人の主体性というものが社会的にあまり認められていない、あるいはあまり重要視されていない国民性では、聖書が言っている「信仰」というものをうまく説明することは難しいです。
 「信仰」ということばで訳される新約聖書の原文のギリシャ語では、「ピストス」ということばが使われています。このことばはむしろ「信頼する」という意味の方が大切なように思います。「ピストス」ということばは「ペイソー」という語が元になっています。この「ペイソー」は積極的な意味では、相手よりも力や影響力が「まさっている」という意味です。そして受動的な意味では、他の者に「勝たれる」、「勝利者になられる」という意味になります。ですから聖書が提示している神に、自分のすべてを明け渡すというのが、聖書が教えている「信仰」というものです。
 個というものがあまり明確でない日本人にとっては、相手の権威に服するという事も不明確になります。表面的には相手の権威に服すると見えていても、その相手の権威に服する個そのものが不明確なので、服従の仕方も不明確になるようです。また「自分のすべてを明け渡す」といっても、明け渡すべき自分が不明確なので、信仰そのものもはっきりしないものになってしまうようです。これをなんとか是正し、自分を成長させ、自分というもの、「個」をはっきりさせるためには、聖書のことばを信仰をもってよく読むことが大切になります。

 このようにして神の権威を認め、神がすべてを支配しておられるということを認め、了解するなら、神が、「望んでいる事がら」を保証し、「目に見えないもの」を確信させるのだということが、理解できるようになると思います。そこでこんどは、その「望んでいる事がら」とか「目に見えないもの」というのは何かと言うことになります。これはこの手紙の続く諸節で述べられていきます。それはまた別の文章で説明しますが、聖書全体の表現のことばで言えば、神を信じることによって与えられる「永遠のいのち」とか、天の御国への約束というものであると言えます。
 シェンキヴッチ著『クオ・ヴァディス』やラーゲルクヴィスト著『バラバ』などには、第一世紀のクリスチャンたちの迫害の出来事が詳しく描かれています。このクリスチャンたちは、ローマ市の大火の放火犯として処刑されます。しかし彼らクリスチャンたちは死ぬことを恐れるよりも、永遠のいのちの喜び、天の御国への期待や喜びの故に、むしろ喜んで死んでいったと描かれています。実際には死の恐怖というものはもちろんあったことでしょうが、それにもまして、天の御国へのあこがれは強烈だったと著者たちは描写しています。
 このヘブル人への手紙が述べている信仰によって得られる保証や確信、その結果として信仰者がもつことのできる「望んでいる事がら」とか「目に見えないもの」への確信というのは、この天の御国へのあこがれであると言えます。そして聖書は、この信仰があるなら、この地上の生において、人間としての責任を果たすことができるのだと教えています。

2007.10.14

見よ。すべてが新しくなる!

 《だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました》(Ⅱコリント人への手紙5:17)。

 このことばはなんと力強いことばだと思わないでしょうか。この世界のどこにこのように断定的に言うことのできる人があるでしょうか。たとえば「だれでもこの会社にはいったなら、その人は新しく造られた者です。……」などと挨拶する社長さんが居るでしょうか。
 今のこの世界は、大きな行き詰まり状態を打開することができずにいます。《すべてが新しくなりました》などというところはどこにも見当たらないというのが現実です。世界中の人たちは、そのような現状の中で息もできないで居るようです。
 しかしすべてが行き詰まり状態だというのは、今に始まったことではないようです。人間の歴史の中ではいつの時代でも、どんな支配者の時代であっても、いつも行き詰まり状態にあったのではないかと思います。その打開の方法として人間はいつでも、戦争という手段、あるいは暴力という手段を用いてきたのではないでしょうか。

 上に引用した驚くべき内容のことばは、第一世紀の時代に書かれたことばです。キリストが十字架につけられて死に、墓の中からよみがえってきたという出来事から、20年から30年くらい後の時代に、当時の世界中、すなわち今のパレスチナからトルコ、エーゲ海周辺のいくつかの都市を駆け巡って、このことばを人々に語り続けた人が居ました。その人は「使徒パウロ」と呼ばれる人です。このパウロはキリストの死と復活の意味を、ユダヤ教の経典である旧約聖書から解き明かし、キリスト教会の基礎を築き、キリスト教会を世界大に広げるきっかけを作った人です。

 上に引用したことばは、ギリシャのコリントス市にある教会の信徒たちにあてた手紙の中の一節です。「キリストのうちにあるなら」というのは「キリストを信じるなら」ということとほぼ同じ意味です。すなわちキリストを信じるなら、すべてのことが新しくなるというのです。
 第一世紀の時代も、今と変わりなくすべてが行き詰まり状態だったと言えます。そういう時代に向かって使徒パウロは、キリストを信じるところに人生を生きるための解決があると人々の魂に語り続けたのです。「見よ。すべてが新しくなる!」と語り続けたのです。

2007.04.08

イエス・キリストの復活

 今日4月8日はイエス・キリストの復活を記念する日。ただしこの日は毎年の暦によって移動する。今日、全世界のキリスト教会では「イエス・キリストは死者の中から復活した」という説教が語られているはず。
 キリストの弟子の一人ヨハネが記録したキリストの伝記によれば、復活の出来事は次のようであった。

 週の初めの日、私たちの今のことばで言えば、日曜日の朝早く、マグダラのマリアという婦人がイエスの遺体を納めた墓にやってきた。この墓はイエスの十字架刑が執行されたゴルゴタの丘の近くにあり、アリマタヤ村のヨセフという人の所有だったと言われている。今はこの場所に「聖墳墓教会」という名の大きな教会堂が建っており、エルサレム観光の目玉の場所になっている。
 ユダヤでの当時の墓は、自然にできた洞穴を利用して作られていた。いたずらされたり副葬品を盗まれたりしないように、洞穴の入り口は大きな石で閉じられるのが普通だった。
 十字架刑は前の週の金曜日に行なわれた。イエスの弟子たちにはこれはあまりにも突然の出来事であり、自分たちも逮捕されるのではないかという恐怖から、みな散り散りになってしまっていた。数人の婦人たちと弟子の一人ヨセフと、墓の持ち主のヨセフと、ニコデモといった人たちによって、イエスの遺体は十字架から取り下ろされてこの墓に運び込まれた。ユダヤ人の習慣は、遺体に没薬とアロエその他の香りのよい油などを混ぜたものを塗り、細長い亜麻布で巻いて墓に納めるというものであった。
 この日の日没から安息日が始まる決まりになっていた。イエスの死は突然のことであり、また安息日が始まれば、その決まりに従ってだれも自由に行動することができなかったので、不十分な処置のまま埋葬せざるをえなかった。日曜日の早朝、墓にやってきたのは、マグダラのマリヤほか数人の婦人たちであった。彼女たちは埋葬のとき不足していた油を塗り、遺体の処置を完了させることが目的で、墓にやってきた。
 途中、婦人たちは墓の入り口をふさいでいる石をどうやって取り除けようかと相談していた。婦人たちの力では石を動かすことができないと思っていたからである。ところが墓に来てみるとその石はすでに取り除けられていた。不思議に思った婦人たちが、墓をのぞき込んでみると、そこに納めたはずのイエスの遺体がなくなっているのを発見してびっくりした。
 婦人たちの中のマグダラのマリアは、弟子のヨハネとペテロがひそんでいる家にかけつけて、「だれかがイエスの遺体を盗んでいった」と報告した。ヨハネとペテロはびっくりして墓に駆けつけた。ヨハネが先に着いて墓の中をのぞきこんでみると、イエスのからだにまきつけてあった亜麻布がそのまま置いてあるのが見えた。続いてペテロが到着し、墓の中に入ってみた。ペテロは良く調べてみた。確かに亜麻布が放置されてあり、イエスの頭に巻いてあったはずの布も、そこにあった。しかし遺体そのものはなくなっていた。
 ヨセフとペテロは、遺体が盗まれたというマリヤの報告があわてた結果の見損ないなどではなくて、ほんとうだったことを確認した。二人の弟子と婦人たちは、どうしていいかすぐには考えがまとまらなかった。とりあえず隠れ家に引き上げて相談しようということになって、二人の弟子たちは引き上げた。
 マグダラのマリアは途方にくれながらもそこに残っていた。彼女は泣いていた。泣きながらもう一度墓の中をのぞきこむと、墓の中に白い衣をまとった天使と思われる姿があった。そして「どうして泣いているのか」とたずねられた。マリアは「だれかが私たちの主の遺体を盗んでいったのです。どうしていいかわからないのです」と答えた。
 そのときマリアは何かの気配を感じて、後ろを振り向いた。するとそこに一人の人物が立っているのが見えた。彼女はその人物が、この墓のある園を管理している管理人だと思ったので、「あなたが私たちの主を運んだのなら、どこに運んだのか教えてください」と言った。
 するとその人物は「マリア」といって彼女に呼びかけた。この声を聞いた瞬間、マリアは忘れもしない主イエスの声であることに気がついた。そこにはまことに主イエスの姿があった。そこで彼女はイエスに取りすがらんばかりにして「先生!」と叫んだ。イエスはこのことを弟子たちに報告するようにとマリアに伝えた。
 マリアは何がなんだか十分に理解ができなかったが、このびっくりするような知らせを抱えて、まるで転がらんばかりにしてヨセフとペテロが帰っていった隠れ家に駆けつけた。そして「主にお目にかかりました。ほんとうです」と叫んだ。

2006.07.24

まことの救い主は――イザヤ書を読む 1

 十日間の入院の間に、旧約聖書のイザヤ書を読みました。
 イザヤ書というのは旧約聖書の中の預言書のひとつです。旧約聖書は歴史を記述した「歴史書」と、詩篇など文学作品のようなスタイルを持つ「諸書」、預言者たちが記録した「預言書」とから成っています。
 預言者というのは聖書世界での独特の働き人です。その働きによって生活が支えられていたわけではないと思われるので、職業とは考えられません。彼らは神の民と呼ばれているイスラエルの民に、あるいはその政治的、霊的指導者たちに対して、神の御旨はこうですと語ったのです。したがって預言書という書物はいずれも「神はこう言われる」という語り口で記録されています。
 聖書が私たちに教えている神さまは、私たちに語りかける神さまなのです。その集大成が聖書ですね。聖書の民は、この神さまのことばに聴き従うという生き方をしてきました。聖書世界以後のクリスチャンたちも、同じように「聖書が神のことば」という信仰を持って、聖書のことばが自分に語りかけられている神のことばと信じて、生きる糧としてきたのです。

 ところでこの「イザヤ書」の中には「しもべの歌」と呼ばれる不思議なことを書いた部分があります。たとえば《 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける》(7:14)などです。ただしこのところは「しもべの歌」という分類には入らないのです。このところの前後関係を調べてみても、この男の子を産む「処女」というのが誰のことを言っているのか特定することができないのです。しかも預言者イザヤは、預言者として神さまが「こう語れ」と言われたことを語っているのですから、イザヤ自身にはなにかヒントがあったのだろうと思われます。
 さらに不思議なことは、「処女がみごもって男の子を産む」というこの予告が、その700年後、イエス・キリストの誕生以後(特にその復活以後)に、キリストを神の御子と信じるようになったキリスト者たちによって、上のイザヤ書のことばが、イエス・キリストが処女マリヤから生まれるという預言であると解釈されるようになったのです。新約聖書の最初におかれている「マタイの福音書」の冒頭でこのことが記されています。

 イザヤ書の中の「しもべの歌」と呼ばれているところは、これと同じように、イエス・キリストの生涯に関する預言になっているのです。たとえば《見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。多くの者があなたを見て驚いたように、──その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた──》(52:13-14)などもそのひとつです。
 「わたしのしもべ」というのは「神さまのしもべ」という意味です。多くの議論がありますが、それらすべては省略して結論だけ言いますと、この「しもべ」はイエス・キリストを指すと私たちは考えるのです。イエス・キリストは神のしもべ、すなわち全世界の救い主として「非常に高く上げられる」というのです。神の救い主というのは、普通に期待されているのは、大きな力と権威を持っており、見たところも見栄えがあり、崇高ささえも期待されているのではないでしょうか。ところが実際は、メル・ギブソンが「パッション」という映画で徹底して描いたように、神さまから送られたまことの救い主イエス・キリストは、「その、顔だちは、そこなわれて人のようでは」なかったのです。

 現代は世界中で、力や権威が求められ、華やかなスターが求められ、トップ・ランナーが、華やかな脚光を浴びて人々の心を魅了しているのです。そのような権力やきらびやかさなどは、一見、救い主のようには見えるが本物ではないと聖書は言っているようです。貧困、飢餓、エイズなどで苦しんでいる人々に対しては、「顔だちは、そこなわれて人のようではない」という働きが必要なのではないかと思うのです。

2005.12.23

クリスマスのことば

「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」(ルカの福音書2章14節・新改訳聖書)

 このことばはイエス・キリストの誕生のときに、羊飼いたちに語られた天からの啓示です。
 イエス・キリストはおよそ2千年まえに、いまのパレスチナ人の土地にあるベツレヘムという町で生まれたと、聖書は証言しています。そのときベツレヘムの町の近くで夜、羊の番をしている羊飼いたちに、突然に天使が現れます。そして神さまの光が周りを照らしたと言われています。この神さまの光が夜空いっぱいに輝いたのか、それとも天使のところだけが、ぼおっと明るくなったのか、どちらなのかははっきりしません。でも普通、イエス・キリストを信じる人たちは、夜空いっぱいに、平和の神さまの光が輝いたのではないかと考えます。
 そしてその光の中から、天使の歌声が聞こえます。そのことばが上にあげたものです。このことばの中心は「地の上に平和があるように」というところだと思います。昔からアラブ人とユダヤ人という対立があって、争いが繰り返されてきた所に、平和を実現するという大きな使命を持ってイエス・キリストは天から遣わされて来ました。

 人間の歴史の中で、常に人々は平和を願ってきました。ところが平和を願う結果、争いとなり戦争となってしまいます。小泉首相も靖国神社で平和の祈願をするのだと言いながら、米国の尻馬に乗っかって、アジアで軍事緊張を高める政策を取っています。ほんとうの平和というものは、軍事力の強化によってもたらされるものではなく、軍事力を放棄することによって実現するのではないでしょうか。
 この年も世界中に国際的な緊張感が高まるという歴史を刻みました。このような流れの中で、聖書が語り続けてきた「クリスマスのことば」に、真剣に耳を傾けたいと思います。

2005.08.12

戦争の問題と聖書

 聖書では、唯一のまことの神さまによって、この世界のすべてのものは創造されたと説明しています。人間もまた神さまによって創造されたのです。人間は「神のかたち」に造られたと聖書は述べています。この「神のかたち」ということばには、多様な意味内容を考えることが出来ます。その一つに、人間は神さまのことばを聞くことが出来るという能力を備えていたということがあります。というのは聖書では、人間の創造の記事に続いて、「生めよ、増えよ。地を満たせ」という命令や、いわゆる「禁断の木の実」について、どうすべきかという説明など、神さまの人間に対する語りかけのことばが記録されています。ということは人間は最初から神さまのことばを聞いて、それに従うことが期待されていたと考えられます。

 人間はサタンの誘惑に陥って「エデン園の中央にある木の実を取って食べてはならない」という禁止の命令を破ってしまったのだと、聖書は語ります。その結果、人間は、神のかたちとしての本来のあり方を失ってしまって、神さまのことばに聞くというよりも、自分の欲望に従って生きるようになったと、聖書は語ります。その結果は「女の人は自分の夫を恋い慕うようになる」、すなわち自分の夫を独占して思うがままに支配しようとする。「男は女を支配するようになる」、すなわち人間関係は愛の関係ではなくて、互いの支配の関係になってしまったと聖書は述べています。

 この人間の堕落の結果、人間は互いに相手を信頼できなくなって、自分の力で他者を支配しようという欲望だけで生きるようになってしまったといえます。これが戦争の原因だと言うことが出来ます。ハインツ・エドゥアルト・テートという方(1918年生まれ、1963年以来ハイデルベルク大学の神学と倫理学の教授)は、「人間の本来持っていたはずの人間性は、人間に対する神の呼びかけを聞くことによって成立する」と語っています(『現代文明の危機と時代の精神』岩波書店 1984年)。

2005.06.22

人間は神によって創造されたもの

 聖書は、人間は神さまのかたちに造られていると述べている。

 私たちキリスト教保守派の聖書理解の原点はここにあると言える。創世記第1章から11章あたりまでは、まったくの神話だとして無視するのが、現代的な聖書理解だと主張するグループもあるが、私は特に創世記1章から5章までには、現代にも通じる重要な思想が述べられていると考えている。
 ご存知のように、創世記という書物は旧約聖書の冒頭にある書物で、天地創造の物語が最初に書かれている。日本では公的な教育の場でこの世界は神の創造によるものだという、いわゆる「創造論」を教えるところは皆無であろう。しかしアメリカでは州ごとに異なっていて、今でも進化論説と同時に神による創造説を教えるようにと言う要求がなされている。

 それはともかくとして、創世記を読むと、現代の問題に対する明快な答えを見出すことがしばしばである。神は地上に植物をはじめあらゆる動物を創造される。そのときすべての動植物は、その「種類ごとに」創造されたと述べている。ところが人間だけが「神のかたち」に創造されたと書かれている。このことは人間は人間同士で社会を作り出して生きるものではあるが、同時に「神のかたち」であるのだから、神さまとも同じ種類なのであって、その神さまとともに生きるというのが、人間本来のありかたであったのではないか。ほかの動植物は、その種類ごとに群れを成して生きるのと同じように、人間は人間同士で群れを成して生きるのであるが、同時に神の種類であるので、神さまともに生きるのが人間本来のあり方なのだと聖書は最初から教えているのではないか。

 このことを失ってしまった現代人は、あらゆる逸脱の生き方をするようになったのではないかと思う。他の動物は、同じ種類の中で、時には自然淘汰のような特別の場合もあるが、同じ種類の中で大量に殺戮に明け暮れるなどということはない。だだ人間だけが、同じ種類の人間同士で、大量に殺戮を繰り返して、何の反省もしないのは不思議ではないか。神から離れてしまった人間の悲惨な姿がここにあると私は思う。

2004.12.21

イスラエルの歴史を読んでみよう 3

 王国の分裂
 「われこそはソロモン王家の王であるぞ」と、レハブアムはその権力を見せびらかしたものの、北方部族にとっては、もはや王さまとしては受け入れることができませんでした。彼らは、ユダ部族とはもはや一緒にはやって行けないとばかり、自分たちはヤロブアムを王さまとして立てて、レハブアムに対して反旗を翻しました。
 これに対してレハブアムは、直ちに役務長官ハドラムを遣わして、北方部族からの労務者の獲得を図ろうとしたらしい。しかしもはや聞く耳を持たなかった北方部族の人々は、たちまちハドラム役務長官を捕らえて石打ちの刑にしてしまいました。
 それを見ていたレハブアム王さまは、これは一筋縄ではいかないわいとばかり、いのちからがら戦車を、がらがらと駆りたててエルサレムに逃げ帰ってきました。そこで次の作戦を考えようというわけです。レハブアムという王さまは宮廷で王子さまとして育てられたのでしょう。状況判断を誤ったのですね。

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